青江三奈『伊勢佐木町ブルース』(1968)も、オンタイムでは知らないのだけど。
伊勢佐木町の少し妖しい感じがきらいでない。
単に街自体の設備投資が回ってないのか、それ以上の何かがあるのかよくわからないけど、いい具合に妖しい。

で、なんとなしで横浜のコトをすこし調べたらひょんな経緯で「メリーさん」の話題にゆきついた。

歌舞伎役者の様な白塗りの顔、白いドレスで伊勢佐木町の街頭に立ち続けた老女の呼び名(俗称?)、それが「メリーさん」なのだそう。横浜界隈のヒトであれば大方見かけた事があるが、何故彼女メリーがその格好でそこに立ち続けるかを知るヒトはいない、というような内容。

ここまでだと都市伝説の様相なのだけれど、戦後の50年を娼婦として街頭に立ち続け、そして1996年に突如その姿を消した「メリー」に関するドキュメンタリーが、中村高寛監督のにより5年の歳月をかけて製作され、2006年に公開を迎えている。

その作品が、『ヨコハマメリー』。


まだ観ていないので、客観的なところでwikipediaの項目『ヨコハマメリー』からその作品概要部分を転載しときます。

白塗りの厚化粧をしてドレスに身を包み、街角に出没して横浜の風景の一部となっていたホームレスの老嬢メリーさん。1995年の初冬、人知れず姿を消した彼女の半生を、若きスタッフたちは多くの関係者の証言をもとに跡づけていく。5年の歳月をかけた地道な作業の積み重ねの中からメリーさんの実像が次第に浮かび上がるとともに、証言者たちそれぞれの戦後史もまた浮き彫りにされていくのだった。それは横浜という街の、そして日本という国の歴史の一断面でもある。
映画の完成後、出演者が一人また一人と世を去っている。過ぎ去る時間、風化する記憶に追いすがり、まさにぎりぎりのタイミングで作られたドキュメンタリーである。

from wikipedia

自分がまだチビの頃にみた不可思議なヒトや光景、「子供は知らなくていい」コトという封印みたいなもんで「とにかくそういうもん」と理解するしかなかったような奇異がいくつか、記憶の片隅に残ってて、そこを刺激されます。
「あれってなんでああだったのか」の裏側にはそれぞれの思考と事情があるっていうあたりまえのことにあまり想像力を働かせていなかった自分が残念。特に自分が経験し得ないさまざまの意思と事情の基盤が、時代の推移で本気で消えて行くハズなので、ますます追跡のキッカケも無くなってく一方なんだな、というむなしさも。

過去を捨てて変わってくこと、過去の延長で今を貫くこと、その両方が混在しながらやってきた戦後60年間がこれまでなんだとすると、そのない交ぜな状況がキレイサッパリ終わってしまうのがそろそろなんだということについて軽く心細さみたいな感覚を覚えます。特定の出来事についての体験を証言する形での事実確認(裁判とか伝承とか)は不可能になり、標準化された教科書の記載事項だけがその真偽とは関係なく”事実”として残るのだなぁ、と。
ちょうど『猿の惑星』の “禁断の地” みたいですよね。誰も行ってはいけないとなってしまう結果、誰も行ってはいけない理由の確かめようがなくなる。

中村監督がほとんど同じ年代なので、なんかこのあたりの世代特有の喪失感とかがあるのかな?と勝手なシンパシーを感じたりもします。

ある時からそのママの生き方を貫いてしまうコトについて、少し考えてみるに良い機会かもしれません。
ドキュメンタリー作品『ヨコハマメリー』、観てみようと思います。

関連リンク
メリーさんの故郷の写真

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ヨコハマメリー

白い顔の伝説を求めて―ヨコハマメリーから横浜ローザへの伝言