佐々木俊尚さんの「ブログ論壇の誕生」を読みました。
佐々木俊尚「ブログ論壇の誕生」
出版物にしては比較的新しめの内容について書かれていることになんだか感心しました。また、非常に読みやすく書かれていて、テンポ良く読み進める事ができました。
newsing 上原さんの件や、毎日新聞英語版「WaiWai」の件、それにネットをめぐる法規制の件など個別事例として興味深いことの幾つかはあるのですが、本書の内容についてはあまり触れる必要を感じません。切り取った事実とその編集という点で完結しているというか、佐々木さんはそういう繋がりを見ているんだ、という。
なのでここでは、本書の内容をきっかけとして、感じた点を以下に記そうと思います。


ひとつには。
インターネットを「道具」として捉えている人と、「生活圏」として捉えている人、あるいはその両方として捉えている人とで、様々意見が紛糾しそうなテーマだな、ということ。
これはもう、9.11やフォークソノミー、CGM、クラウドコンピューティングみたいなことがスッと入ってくるひとと、googleを百科事典として便利に使っているだけのひととでの違いというか、インターネットに関する経験量と期待値がまるっきり違う大勢がいる、と。当然と言えばそうなんですが、自分基準に陥りがちと反省。

ふたつめには。
インターネットでのコモンセンスは難しいしブログをとりまくソレもまた同様。が、そこが興奮が産まれる材料だったんじゃないか、ということ。
書中 newsing 上原さんの件に触れています。あれはどうとらえたらいいのか判らない。(無論、誹謗中傷や人権侵害などを除いて)大勢の反感をあおる「意見」を唱えるとイケナイという法はないはずで、むしろ紛糾することで論壇の土台を一段固めたともいえそうです。そういう事から察すると、 blog の論壇としての熱さと自省機能について触れたという恰好になるのでしょうか。
この件から転じて、そもそも現実社会とインターネットのそれぞれにおいて、または公人と私人とのそれぞれにおいて、その意見を貫く必要性がどれだけあるのか、については結構ナゾです。裏返して言うと、インターネット上で表明した意見はもはやマニフェストとして行動規範としなくてはならないのか? それは誰かに強要されることなのか? 受け手からの失意と購読者離れを産むというメカニズムは必要十分な制裁か? などについて想いが及びます。そして同時に他者の逸脱を糾弾するスキル、糾弾する際の良識の欠如という点についても考えさせられます。(この欠如もある種の興奮を喚んでいるのカモ)

上記のどれも、誰かが規定/規制する事なのか、まただれかが規定/規制したならそれに従う理解の仕方を身につけるというのか、という点についてもなんとも座りが悪いかな、とも。座りが悪いというのは、なにかにつけ「対決」を通じて「決着」を目指す、そういった向きの声が浮上するたびに、何か主権交代の要請的な目論見の存在を邪推してしまいます。レガシーなものは時代にフィットした改革を目指し、新興メディアはユニークさを武器に信じる高みを目指せばいい、共栄すればいい。これは本書の帯中で「旧弊」と位置づけられる新聞社とニューメディアたるブログ、あるいは団塊世代とロストジェネレーション世代との関係について。(書中、著者はブログに刮目しなさいと言ってはいますが旧メディア駆逐を主張していません。むしろ共存共栄寄りの意見と見て取れます。帯だけが「一掃」主張。念のため。)

別途。
論壇はどこにあっても構わない、という想いもあります。仮に「『本物の』論壇」があるとするならそれは受け手や参加者の一人ひとりが勝手にそう思い込むだけのことであるようにおもわれます。また、仮に大多数が特定の場に指向性を持つようになるなら、そこが最も hot だということは言えるわけですが、だからといって最も正しい場であるということは必ずしも言えないわけですし。
そして更に言うなら、論壇の「本物さ」は場の濃度を高める要因にはなりえるかもしれませんが、それが「本物」であればあるほど理解が及ばない大勢、利害が合致しない大勢を敬遠させる、そういうエッジなものともなりそうです。だからこそ、blog へ目を向けさせるものとして本書の出版が有効なのかもしれませんナ。

あー、なんだか散ってきましたね。なんでしょうか。
見方によっては、ブロガーだとか、ブログスフィアだとか、新聞/出版だとか、はたまた「論壇」だとかも、そもそもそういったものはすべて個の集合に対してつけた呼び名でしかありません。ある種俗称としてグルーピングされた大勢の個人がいるだけだ、と改めて想いを強めます。
或る種の趣向の持ち主(運営主体も読み手も)たる個人が好む「手段の選択」と、それぞれの社会的集団がその果たすべき役割や機能を客観的に自認して目指すべき目標や維持すべきモラルなどに関する「あり方の選択」とはハッキリと切り分けて議論するのが分かりやすくて良いと、個人的に思うのです。

まとめると。
メディア事業としては一定の π を奪い合う(自ずと対立する)かもしれないけれど、論壇・論考は無限でよろしい(対立しない)ということでしばらくはいきたいとおもうワケです。それならば、ボクは他人の商売のことなんかとやかくしないで、ただ単に自分のブログを綴るノネ。そして面白いとおもう人の記事を勝手に読むノネ。んー、結局まとまんなかったノネ。

関連リンク
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