水村美苗さんの「日本語が亡びるとき ー英語の世紀の中でー」を読み終えました。
日本語が亡びるとき ー英語の世紀の中でー
読み始め、冒頭はちょっと挫折しそうになりました。怠いかも、と。しかししかし。

<真理>というものは、時が熟し、その思いこみをようやく捨てることができたとき、はじめてその姿ー<真理>のみがもちうる、単純で、無理も矛盾もない、美しくもあれば冷酷でもある、その姿を現すのである。そして、そのとき人は、自分がほんとうは常にその<真理>を知っていたことさえも知るのである。

水村美苗 『日本語が亡びるとき ー英語の世紀の中でー』 筑摩書房、2008年、96 頁

<叡智を求める人>というのは、必ずしも精神的に優れた人たち、つまり、勇気があったり、公平であったり、心がやさしかったりする人たちを指すものではない。たださまざまな苦労をものともせず、自分が知っている以上のこと知りたいと思う人たちーのみならず、しばしば、まわりの人たちの迷惑をも顧みず、自分が知っている以上のことを知りたいと思う人たちである。

水村美苗 『日本語が亡びるとき ー英語の世紀の中でー』 筑摩書房、2008年、127 頁
この短い 2 つのフレーズが出てきたときに「あ、軽はずみ言わない人だな」って感じ、そこから先は一気呵成で読み終えました。

著者ほどに、言葉と文化の関連について考えたことも無く、また読み終えた時点でどれほどを理解したかも微妙なので、書中何が書かれているかについてはここではあまり触れないことにします。本書の内容、レビューに感心があるヒトは、まずはこちらでどうぞ。

本書が主眼とする日本語を離れ、それでここで何を書くのかというと、

本書を読みながらボクの脳内で生じた電流の位相、普段から漠然と感じていた言語と文化についての不安の位相を記します。こんな位相に多少なりとも感じ入る方は是非原書にあたることをオススメします。

唐突ですが、まずは最初のトピック。
制度不備とモチベーションについて。(科挙制度について、168 頁あたりに言及があります。)
著者は触れませんが、登用に関する制度上の弊害がいまの官の機能不全に通じるのではないか? と根源的問題を言い当てているように思います。人材登用試験に通過する優秀な人材、あるいは通過するために要する並ならぬ動機を持つものたち、彼等は果たして「何」において秀でているか? また「何」かにおいて秀でている彼等は、あまねく「国民」の幸福や国益を願うであろうか? と。最高学府を修めるあるいは官の門をくぐるそのこころざしその人間に特有の行動原則があるとするなら、それは果たして「何」だろうか?
この「何」が、例えば仮に、功名心や個人的利益などのあくまで「私人としての動機」であり、またこの「私人としての動機」が科挙制度における承認を拝すことによって満たされそしてその働きを終えてしまう場合に、その後果たすべき役割に対する「動機」の構造はどうなっているのか?
或は、たまさかある漢字の読みを知らない、という事実は、その報道の通り、それほどまでに一国のリーダーたる資質を疑われるべき「欠点」と定位されるに至ったのは何故か? 官に漢字の読み書きを期待しているのは、その期待の基軸があまりに粗末ではないかと。私たちは、私たちのリーダーに私たちと同じ動機付けを持っていることを望むのか? それが仮に科挙制度を乗り越える程に強力な単なる功名心であってさえも。そうであるベキなのか?

併せて。
他者を突き放すものは、ともすると言語外の思考方法を備えたものであるのかもしれない。その独特の思考方法によって万人に理解しうる成功を導くものリーダーと呼び、万人には理解し得ない成果をもたらすものをバカモノと呼んでいる可能性はどれくらいだろう。そして言語による思考で「私たち」を「私たち」と呼び合う国民民衆は、「私たち」または「評論家 (明確な基準をもたない点で、評価者でもないのだけど)」以外の何かしらに属することはできるのか? つまり作為者であるためにできることは何だろうか?

KYについて
いつどこで触れるんだか、その恥ずかしさから悩むところだったんですが、 果たして、ここで触れずにどこで触れるかと自分を鼓舞しつつ。
「空気読めない」の肝心な点は、「空気」の側にはない。「読んでくれよ」という要求を出せないながらも、その自尊心から、他者を否定的に表現した「読めない」の側にこそ重きがあると読み取っている、もちろん個人的に。つまり誰かしら上位者、もしくは不可侵のものに対して、下位のものが「我々」を「理解」し、更には「困らせるな」と言っている訳だ。つまり弱者から強者への言葉なんだろう、と思う。
だから当然「空気を読んではいけない」とマネジメントの教則本は書くし、上位者の自覚あるものは同様のことを言いたがるわけだ。そして、上位者は更ないる上位者に対して、例えば一国のリーダーにつき「読めない」ことを非難する構造になっている。ヘン。 KYなど、言ってる側も、これを面白がってそやす周囲も、まして「読むな」説も、ダサ。

さらに。ついでだからこれにも触れたい。「ぶっちゃけ」。
未来においてこれが辞書に載り、ボク生きた時代の風俗を交えながら、こう説明される。
「よみ:bucchake 本来、打ち明けるを指した俗語である。主に自らの抑圧された状況を開示しまたこれを他者と共感することを目的としてしばしば用いられた。また、言外に免責の意を含み、独善的行為の事前交渉において極めて有効な枕言葉としての役割を持つに至った。後期においては字義は形骸化し、不平を含む発言の前置きとして記号的機能を備え、その成熟期には官民公私の別なく広く利用された痕跡が認められる。古く2000年代初頭の日本の社会および風俗をよく表した語として、江戸時代の粋(イキ)に比肩するものとして研究が盛んである。 例) じぶん~、ぶっちゃけぇ、ねてないんすよぉ。
意味を言葉に「あずけ」「外部化する」もしくは「翻訳する」というのは、その品質の差はあれ、こんなようなことだろうと思う訳です。さもありなんみたいな体を成して伝承される。実態がどれだけ酷いものであったとしても。
言わせねーよ!(我が家)だ。

テレビの再現について
普段からたびたびある抽象的な想いに苛まれる。その想いというのは「テレビを作ることができなくていいのか?」まぁ、唐突ですよ。
つまり。いまボクの部屋には完成品としてテレビがある。受信する情報も無事に送り届けられ、そして表示されている。が、「テレビの作り方」に関して、かなり過去のアイディアだというのにその蓄積が僕の中にはない、というか概ね誰の中にもない。道具はそうやって歴史のどこかのタイミングで個人の中で原理に関するアイデアが生まれ、多くの材料によって製造されるが、理屈、原理とは別に「発想」し「原料」を用意し「組み立てる」そのプロセスの再現性が自分の中にはなにもない。そのことが心配だということを指しています。
原理としては、モールス信号あたりにさかのぼることになると思われる。ツー・トンから始まった信号の送受のアイデアは、音声、映像の多様なコンテンツ送受を生み出しながら、より先進なコンピュータとインターネットを生み出しはした。生み出しはしたが、過去のとある人物のたまの思いつき、時としては夢想家、夢見がちと揶揄されそうな思いつき、と言うある一アイデアの上に何かを継足しつぎたししてきた繰り返しの歴史にすぎないともいえそうに思えて来ます。
「テレビをつくれるか」という不安感の根源はここにあります。
人の世の文化は、前の世代を生きた自分と等価のだれかがたまさか思いついたアイデアの具現化のその上に厚かましく居座り似て非なるもの、強いて云えばそれまでのものよりも一層ヒトへ最適化した似て非なるもの、を繰り返し作るだけなのか? そうだとするなら、それでいいのか?
桂歌丸の堆く積み重ねた 12 枚ほどの座布団の上に別の者が疑念なく座り、歌丸の門弟ではあり方向性こそ歌丸的ではあるが歌丸ほどに噺の根源に近くはなくまたその半生を歌丸の真似に捧げたものが、あたかも歌丸的な何かを噺し、自尊心も虚しく、悦に入るというのでいいのか? 観衆はそれでも嗤うのか? 円楽はそれを許すのか?
というか、コレ何の話だ?

果ては
ヒトの造りが複雑高等であるという概念についても懐疑的にならざるを得ない。道具を使い、また言語で意思を交わらせるというヒトの特徴は、それをもって「高等」か? 文字通り無数にある進化の一方向として、集団としての繁栄と永続を最大の目的とする場合、私たちは私たちよりも永く種を保存することに成功していると目されるあのあのネズミに勝るのだろうか? その脳を極端に肥大したこの生き物、ヒト、はその塩基配列の複雑さや脳の重さをの優位によって「高等」といえる可能性はどれだけあるか? 否。単に「個」においてやたらに高い思考的負荷を処理する能力を備えるに至ったことを認めるにせよ、ただしそれが種としての高等さや種の保存の大目的において絶対的尺度ではないばかりか、個が独立するが故に孤独という不幸をも生み出しながら、ある方角に向いてはいるがその方角の果てが自ら望むものかどうかも知らぬ進化の道程以外になにも選択肢が無いという状況である可能性はどれほどか?

ネズミの未来がネズミであることと同等に、ヒトの未来はヒトそれでしかないのだろう。
個として類い稀な創造性を発揮する場合もあるが、大方の場合においてはその大きな脳がゆえに大きな孤独を抱えこんでしまった、さらには先達の類い稀を闇雲に弄くり回し「新しくないがすこしばかり違うもの」の複製と仕様書たるメモ書きを「業」として背負って自分のしっぽを追っかけるようにその場をグルグルしてやしないか?
アイデアと工程を言語化することで脳から捨て去り、自らの中に何も残さず、総出で無限に続く文書作りに勤しむ業に縛られることが種の保存という点から「高等」なのか?

さらに、ときどき現れる天才、あらゆる時代、あらゆるジャンルの天才は、その時代の文化や知識の乏しさによって天才なのではない。その思索と実現において他の存在を突き放す存在であり、かつ人類史上一番乗りである場合にのみ「天才」なんではないかとも思える。仮に、ピカソ的天というのはピカソ本人以外には存在を許されず、ピカソ以降のピカソ的天才は、むしろ、その思索の類似性にも関わらず、社会的理解のされ方として「病理」の部類にカテゴリされる可能性はどれほどか?

ヒトは膨大な過去の遺産を書類にあずけ、特殊な思索により先んじて見いだされた、例えば自然科学の、原理原則の発見と応用から急速に遠のきながら、あるいはそもそも立ち会いもせず、ときたま出現する人ならぬ天才の出現を待ちながら、焼き増しに勤しむ業に追い立てられ、種としての繁栄そのものをも自己演出し、自らが創り出した(というにはあまりに粗末な)ルールで「信用」というありもせぬものに値段をつけこれを売り買いし、果てには未来の自らにさえ債務を背負わせ、種としての行く先を案じることさえも疎かにし、それでもなおまだこの先に何かがあると、この孤独で大きな脳ミソで信じ、そして歩んでいく可能性はどれだけか?

本書に触れ、言葉と文化について考え、訥々と頭に浮かんだことは以上です。ボクの狭量な脳と極狭い脳梁、そしてつたない言語能力に支配されながら、できる思考はこんなものです。いつも通り、収集つかないところまで散らかしまくったので、そろそろまとめます。

いーかげんにしろ、KY。
いーかげんにしろ、人類。
いーかげんにしろ、笑点の放送回数。

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