文学的な地点に帰りたいなぁという思いがよぎります。唐突ですが。

戦略や戦術、経営指標やpdca、サーベイやマーケティング、それに予算組みや予実の管理。
もともとそういうのってちょっと苦手なんだよなーって想いがずっと頭から離れなくって。そういうのってどういうのかって考えてみたり。数字嫌い? とか思ったりするんだけど、別にそういう事でもない。違うんだよなぁ、と違和感を感じさせる「何か」は、いったいなんだろうか?

たぶん、本来計れないもを無理矢理に数字と理屈くっつけて計れたつもりになってるからじゃないかなぁ、なんてアタリをつけてみた。


だってね。戦略とか戦術とかって、ホントのとこ羽生名人みたいな人には敵わないでしょ。少なくとも将棋では、絶対に。その羽生名人だってチョクチョク負けるワケ、コレ不思議なもんで。そこには人と人と将棋盤と駒しかなくて。ヒト以外は勝ち負け要因にはなりえない。で、その要因がヒトなのがこれだけハッキリしているのにもかかわらず、勝ったり負けたりするわけ。

だから、何が言いたいかっていうと、結局目に見える形で必ず「勝ち」に絡んでいる要因なんて、ホントのところ誰にもわからないんじゃないか? ってこと。

なのにさ、色んな「勝ったあとの人」がさ、さも当然の顔で、大学の就職課で教わったような胸のハリ方で、勝ちの条件みたいな物事を本にしたためたり、これは私みたいな者でも出来たことなんですから是非皆さんもドーゾ的な、上からなんだか下からなんだかよくわかんないアプローチでもって。そんで、割と生真面目なやつから順にそういうことノせられたりもしてて。

「年寄りは大事にしなくちゃいけないよ」って最初にいったの誰か知らないけど、それもし最初にいったの年寄りだったらと考えると年寄り大事にすることで生まれるハズだった僕ら側のメリットの信憑性ゼロ、的な。エゴ、的な。

社会的にエラいとされる専門家や経験者や先人や誰かが言ったことなんか実はこっちの鼻くそ程も価値がなくって、自分の熱意を信じた方がよっぽどいいんじゃねーの? ってのと、勝ったあとの人がいうことなんて自分の身に起こった偶然についての回顧談でしかないんじゃなかろーかというのとで。

そんなじゃイケナイと自分を律してアゴ上げて前向こうと頑張ってみたりもするんだけど。してきたんだけど。それでもなんか違う、というか、妙に「楽しくない」。そりゃそうだ。「やりたいこと」を「やりたい方法」で「やる」のが一番気持ちイイんだから。過去の偶然の成功者が示す過去の事柄を真に受けて「やりたくないこと」を「納得できないやり方」で「やらされてる」んじゃ、楽しい訳ないよね。

ただ単に胆力が足りないんじゃないか? ってのは否定できないけど。

結局のところ、やりたいことをやる。それで、遺伝的にか宗教的にか宇宙的にかダーウィン的にか、自分が大好きな所業や手法が、自分が生まれた社会や時代にとってむちゃくちゃ必要とされるものだったならもの凄くラッキーというそれだけのことと達観してみたり。

それでもって、面白い漫画を書く人、たとえば手塚治虫とか、は結局どの作品もおもしろい。そこに勝ちの法則があるのかどうかは手塚治虫しか知らないんだろうし、後世の漫画家がその漫画表現手法をマネたからって成功するものでもない(と思う)。そしてこの「マネ」の部分が世の中の経営者やビジネスマンが言う「戦略」立案の手法なんだとしたら、それはもう戦略でもなんでもなく、「ただのマネ」どころか、手塚治虫の先に手塚治虫はいなかった分だけ手塚治虫に有利な「劣化したマネ」でしかないよね、ってことなんじゃないかと思うんだ。
目的も手法も目標も意義も、全部自分で新しく開拓しなくちゃいけないのが本来なんじゃないだろうか? とかね。

そういう意味では自分のシッパイの方をたくさん後世に残してくれる先人の方を信じることができる。「シッパイ」したことを「マネしない」というのがもっとも安全な勝ちへの道のりを生んでくれていると思えてくるから。

断片的な事実からしか語ってないから、こういう心境が妥当なのかもよく分からないけど。
でも、みんな好きにやるしかないんじゃない? て気分ってことで。