この1月、ボクの姉が結婚したんだそうナ。

35 年間もの永きにわたりモラトリアム期を過ごした姉だ。決して豊かではない我が家には似つかわしくない程、立派な教育を与えられたと言っていいと思う。

35 年間の教育、そういったものを何て呼ぶかなぁと考えるに「愛情」なのかなぁ。
その愛情というものに気がついていて欲しいとおもう。また、気づいているだけでなく愛情返しの計画を持っていて欲しいとも思う。さらには、計画するだけでなく確実に実行を開始して欲しい。今日から、今から。

ウチの母親はその人生の全部 ?全財産なんていうチンマリサイズじゃなく、自分の身に許された残りの 30 年、自分の人生に与えるはずだった豊かさや楽しみやゆとりや安心、それに健康の全部? と引き換えに、35年分の教育を娘にくれてやった。レベル的には無計画を越えてアナーキーだとさえ言えそうだ。(実際、この点について本人には何度も注意してきたんだけどね。結局最後まで聞き入れてもらえなかったよ)

母親は与えたその愛情の報いは期待をしていないと思う。すくなくともそう言うと思う。けれど、

ボクは何らかの形で報われてほしいと心から想っている。だから、報いをどういう形で受け取ることができるのかなぁ? と不安を覚えた。きっと、どんな形でも実現は可能だと思う。なによりの報いは娘本人の幸せだと言えるんだろうから。
だけど、「私、背一杯幸せになります!」とか「私、夢を叶えます(ました)」じゃ、注がれたものの量と濃度に対して、なんだかとてつもなくチープ。夢だの幸せだのという「私ゴト」なんか本人が望んで当たり前のことだから。そうではなく、今度は愛情を注ぐ側になったんだという自覚を促したい。ボクの覚えた不安は、この「愛情の主客逆転」に関するものと思えてきた。この点に関して、ボクの期待が幻滅と失望に終わらないことを心底祈りたい気分に追いやられてる。

用意できる総てを与えた者と、総てを注がれた者との両方が笑って互いを称え合うことができる、そういうゴール(なのかスタートなのか)でなくちゃ、なんだかボクは認めることができない。そもそもボクが認める認めないということじゃないんだけどね。それに狭量だと捉えられるかもしれないけど、ちっとも構わない。ボクはそういうバランス感覚で生きているしね。

今の時点、母親は娘の花嫁姿に立ち会うことはできなかった。夫になる人に事前に会うこともなかった。ただ、結婚の知らせを電話で受けとっただけだった。
加えて、きっと彼等はこの先フランスに永住することになるだろう。「向う」で家族を持ち、「向う」で生活を送るだろう。そして日本とフランスの間にある「距離」という大っきな壁を理由にして、与えたものと受け取ったものの間の交流は薄まって行くんだろう、と予測している。

ウチの母親に、娘に総てをくれてやった達成感以外にいったいぜんたいなにが残るのか。そんなことを考えてしまう。今のところボクには具体的な像は見えてこない。見えないからこそ、ただただ漂う空虚感に支配されてしまうんじゃないかと心配で仕方がない。

もしもそんなことが現実になるのなら、こんな愚直なほどシンプルなこと ?貰うことと与えることが逆転したんだという自覚? さえ内心に芽生えさせない教育は無意味なものだったということだと思う。残念だけど。すっごく残念だけど。

でも、そんな無粋な心配事は脇に置いておいて、今はこうで良いのかもしれない。

マイマムさん。マイシスさん。

卒業おめでとう。そして結婚おめでとう。
とっても長い道のり、二人とも、本当にお疲れさまでした。
この間、健康や人間関係や言葉の壁、それにお金の問題がありましたね。
それら様々の苦労を二人して乗り越えてきました。
そして、ようやくこれからが二人にとっての収穫の時ですね。
陰ながら、ご多幸をお祈りしてます。

なんつってナー。