昨日が春一番。
色々やっつけた週末の帰り道が、妙に空気が湿ってて暖かい感じで。なんだか卒業シーズンの夜遊びを思い出しましたよ、中学生の頃の。

など、思いつつ。つい2、3日前、ようやくボクの懐も暖まりはじめました。久しぶりのご入金。ありがたいったらないッス、ホントに、もー。

そんでもって、さて本業はというと、近頃ようやくバカの役をやる貴重さに気がつき、鋭意実践中。ちょっと気がつくの遅かったなと、反省もしつつ。

会社や職場では、本当は判っていない事について、あたかも判ったように全員一致という状況がままあるように思えます。それこを判を押したように。上司への思いやりや、頭悪いと思われたくないという感情や、組織や制度という形の無いものを尊重せんがための言外の圧力が働くせいなのかなぁ、とおもいます。
実際バカであるリスクを考えると、

バカだと給料が下がるというのは無いにせよ、横の同僚から文字通りバカにされることや、部下から突き上げ食うとか、意見が通らなくなるとか、仕事振ってもらえないとか、自分が悲しいとか。それはもう直ぐにいくつものネガティブ側のリスクが浮かびますね。
という意味では、上昇志向なヒトや自分の言動の整合性を計ることができるヒトほど、バカの役が出来ず、というかその発想そのものが持てず、結果として真実を伏せたままにして微妙な想いをしているんではないか、と思えてきました。反面、バカのポジティブ・リスクを考えることはあまりありませんね。それでも、彼のアントニオ氏ははっきりと言ってますナ。「バカになれ」と。

回りくどくなりましたが、簡潔には、バカ・リスクについては、実はあまり研究が進んでいないんではないか、というのが言いたいわけですね。一見、バカすなわちハイリスク/ノーリターンという常識に縛られていますが、その実、単なる常識の名の下の思考停止なだけで、本当のところはノーリスク/ハイリターンの可能性も秘めているんではないかとさえ思えてきます。

そんなような可能性を意識した上で、本流に話を戻します。常識や良識や思いやりや言行一致は大事だし社会において信頼を獲得する為には役にも立ちますが、そんでも、少なくとも自分には見えていると感じている真実のカードを伏せたまま何も手を打たず、疑念や不安のストレスを抱えそして潰れてゆくことこそが、よっぽどバカなわけでして。カードを捲って白日の下に晒すのには、相応の努力が不可欠だし、相応の声の大きさや発言のタイミングの見極めも考えなくちゃいけない。この点で最強なのが天然さんだったりもするわけですが、あまねく総てのヒトに天の恵みが与えられているわけではないので、ここはひとつ福山雅治を見習ってバカの役をやってみてはどうか、と。

たとえば、福山雅治は缶コーヒーか何かのCMで言いますよ。「もう、他人を悪く言って楽をするのをやめないか」と。
これ、言い換えると、「お前ってさぁ、言い訳ばっかしてるどうしようもないヤツだよなぁ」って言っているのと同義ですね。強いて配慮を汲み取るなら「オレもな」っていう部分くらいの含みはありそうですが本体の持つメッセージに対しての影響は大きくないですね。
通常、会社の同僚とかっていう水準の関係性では、これ言っても大丈夫って確信は持てない訳です。あくまでもフツーは。更には大勢の同僚や役員のいる場では、まして客先などでは言わない。伝えたいメッセージより手前にある障壁、「失礼」によって返り討ちにされるネガティブ・リスクがあまりに容易に喚起されるから。だから、フツー、ボクらは思ってても決して口に出さない。だけど、言うんですナ、福山ならば。なぜならば、福山だから。過去、よしっオレは江口洋介に対して口ではなく鼻で声をかけよう、と決心したかは本人以外知る由もないんですが、ともかくドラマでの芝居=リアリティ追求という常識の枠を超え「ぬヮんちゃん」って節つきで呼ぼうと決めた頃から、もう彼のバカの役はスタートしているのかもしれないとさえ思えてくるわけです。そして、彼の場合においてバカの役は、ほぼノーリスク/ハイリターンで機能し、名声と今のポストをもたらしました。もちろん好ましいビジュアルは屋台骨として必須であったと思えますし、いわんや(役でなく)天の恵みの恐れも多分にありますが。

で、話を会社/社会にもどすと。軍事に端を発する戦略、戦術という言葉はビジネスの現場でも多用されます。通常は調査分析や過去の経験に基づくというオーソドックスなやりかたで立案したり議論したりするものと思います。事実理解の水準が問われやすく、また抜け漏れが許されない推測の世界なので、比較的バカが露呈しやすく、また思考の単純化が弾劾されがちな場です。が、こういう場でこそ、バカの役の重要性が高くもあります。
判ってないのに、経験してないのに、繋がってないのに、脳内活動が目には見えないのをいいことに、ヒトは安易にウンウン言うものです(ボク自身の経験から)。ウンウン言っている間は周囲のヒトもスルーします。ただし「判っているもの」としてのスルーです。そして、いつしか、議論は深まり、最悪の場合、最期には誰一人「判っていない」ものごとについてその場にいる全員がウンウン言っているという承認の瞬間にたどりつきます。
本来「正しい」かどうかの評価と、「正しそう」であることの評価とは同軸上にはありません(たぶん)。これがごっちゃになるという現象がまま起こるという。この現象の配下に居る一人一人の頭の中では、バカのネガティブリスクばかりに脅かされ、正味のバカ・リスクがよく検討されていないんではないかと思うんです。

そういうときに、「えっ?なんで?難しくてわかんないんだけど」って言うヒト、会社にとって大切と思います。個人的にも、普段からそういうひとが身近にいると助かります。何故を3 回。自分でやるか、手伝ってもらうか、ってだけなんだろうと思います。

バカの役で常に外しちゃいけないのは、「正しそうか」と「正しいか」のところの違いに関する目利きだけ。
かつこの「正しいか」は深いものでは全然なく、結果がずれてないかだけ。
たとえば。経営戦略会議とか経営企画会議を開くと、不景気だから目標値は当初予定から20%下がり、人員不足だからスケジュールは1Q分押し、消費が冷え込んでるからコストは1.5 倍は必要だねとなります。だいたいにおいてワケ知り顔の大人たちは「事情」をいっぱいもってるものですから。でも、目標100%、期日通り、コスト1.0倍で実現できる方法を考えるのが戦略会議だから、出来ない理由10,000 個でなく出来る方法が1 個だけあればいいですよね。

どれだけ高度な理論を持ち込まれても、どれだけ膨大な過去の資料を提示されても、どれだけ「正しそう」でも、指し示す方向と効果が「正しい」でないなら答えは NO しか無いワケですから。逆に言い換えると「ぬゎんちゃん」はそれはもうイラっとくるほどボクらにおいては「正しくなさそう」ですが、結果から見ると福山雅治においては「正しかった」と思えます。たぶんだけど。

とかなんとか。
どういうワケだか福山雅治をモチーフに色々書きましたが、どうしようもなさげな難問にぶつかり、壁を前にして立ち往生したり絶望的な気分にならざるをえないようなシーンはおおむね誰の身にも起こります。そういったシーンの渦中に身を置くと、どうにも考え方が紆余曲折し硬化し、さらにその状況が深刻であればあるほど思考の捻れも硬さも度を増しがちです。そんなこんなでついつい忘れがちになってしまいますが、コツコツと巧いことバカの役を提供し合うというのが意外にも結構な破壊力を持った打開策になる場合もどうやらありそうに思うんですよ、という話。

そんなわけで。
ボクは、まず自分が望む未来の側に立って、今の事情に縛られないように注意しながら、今と未来をつなぐ道筋から目を離さないようにだけ注意して、バカの役に精進していきたい、というわけです。ぬゎんちゃん。