ボクのとこにはまだ連絡来ていないし、来たとしてもちょっと困るなぁと思っている定額給付金のことについて。
またも BOSE BLOG に共感。
定額給付金 | BOSE(スチャダラパー)| honeyee.com
可決までのテレビはいちいち街頭の意見とかマイク向けて、さんざん報道して、賛否をあおって、新聞は解釈論をかきまくって印刷しまくって。結局は給付するんだ、と。そしたらそしたで、配った初日には、取材いって第一号の受給者とかにカメラ向けて、お宅に上がり込んで「大家族の場合は●●万円です!どう使いますか?」とかで。それから後は誰も報じなくなる、というか忘れる、と。いったいなんなんだろうね。焚き付けることはしても感情や行動とは乖離。この情報を受け取り続けたことに、意味はあったのかしらんって。
ボクらはそんなことが知りたかったのかな? 政治の理屈と経済の理屈と自分の考えと天秤にかけて、前の方の 2個(全体論って言うの?)が優先するのは一見立派なんだけど、それは自分個人の側で思考停止が起こってる感じがして「ものわかりのよさ」が気持ちが悪い。
全体としては間違ってなくて、でも個人としては「そーじゃねーだろ。もっとあんだろ。」て思ってる、個人の集合体というダブルスタンダードみたいな状態に対して、画期的で紳士的な解決策を用意できないもんかな?
そして、さんざん物議かもして、違うちがうってヤンヤやって、それでも行使されて、その次のステップで「忘れる」っていうのはもの凄く勿体ない。今回の給付で経済的にはそれなりの成果が出るのは当然のことと思う。けど、政治と個人的感覚の乖離とか、経済と個人的感覚の乖離に関して、マクロにミクロが踏みつけってんじゃなくて、ミクロの積み上げがマクロだよって、そう言う意味での振り返りは必要なんではないか? とかミクロに考えたりして。
マクロが悪だとかミクロがアホだとかいう議論ではなく、そのつなぎ方のところのシステムとアイデアが、全く無いかもしくはド下手で努力不足なところは無いか? という風な点で。
あと、将来から借りる発想はもういい加減やめた方がいい。リスクにベットするので価値が生まれるみたいなのについても同じ。とどのつまりは、資源もなきゃ労働も無く、ひたすら金が生まれるわけだから。屁みたいな理屈。
それに未来のヒトや神様は、仮に貸してやる金をいっぱい持っていたにしても、誰に貸すかが大事なわけで、こんな無責任な借り手には貸したくないだろうと思うよ。
そのうちボクんとこにも報せがくるんだろうけど、いーよ、こなくて。来てもこなくても、受け取っても受け取らなくても、自分のことも家族のことも仕事も納税も頑張るワ、オレ。
当然のことを感じて、言う事ができるのがほんとウラヤマしいワー。BOSE。