ちかごろのボクは。
bycecle, green
迷ってますね。a か b かとかいう迷いでなくして。正しい事ができてないなぁーっ(引用:バカリズム)て感じで。


自分に対して正しい事ってなんだろうかと想い耽るときに、立ち返る場所がなぜだか、ティーンのころという相場が自分の中に出来上がってて。それについて「なんでかな」と考えるにつけ、ナニにも(はオーバーだけど、ほとんど)縛られない発想でいさせてもらうことができた最期のタイミングがこの時期だったからなんだとおもう。

で、そんな思考回路をグルグル彷徨ってて、改めて、どうやら縛られないことが自分に対しての正解の近道に感じ始めてきてるってこと自体がちかごろの重要テーマっぽく感じられる事そのものの方が、どうやら重要テーマくさいとも思えてくる。

ほんとにそうか? とね。

環境に身を置くことでいろいろ見てきて学ばせてもらって、そこから消化できた分だけが自分の知恵になったり知識になったりして、得ることができた分の知恵なり知識なり経験なりを足場にする。で、この足場を起点にして多少背伸びしてみたり、その足場のすぐとなりの新たな足場に歩を進めたりすることも多少できるのかなぁという具合。

でも、こんなやり方では間に合わないというプレッシャが強まってきてる感じ。

なんか、ずーっと向こう側にある足場が自分にとって必要に感じられてきたり。なんか、面積として広い足場を求めたり。無い物ねだりが急進してる感じ。ま、冷静に考えると、足場の数が増えようが面積が広がろうが、自分は一人しかいないし、趣味趣向までは急には変えれないことは判ってるから、焦っても仕方ない。

とはいえ、横見ると、というか周囲見ると、下駄の上に下駄履きまくってるようなヒトが割に大勢。そういった相対的な比較に、解決の糸口はなさそうだよね、と薄らは判ってる。判ってるというのは、相対的な比較について手放しでは喜びきれない自分の性質についてで、間違いなくこう思うと想う。

それで満足か?

が、「下駄」は便利な道具。世の中では意外な程に「下駄」って通じてしまうっぽい。いや、実際には履いてる下駄の「高さ」ってほとんど誰も気にしちゃなくて、どっちかっていうと下駄の素材や下駄の鼻緒の派手さとかそういう方に注意が向くことを見てきた気がするから。でも、アホほど高い下駄はいたひとのその後の活躍(落下)の方は数えるくらいしか知らないのですが。処世的に上手くやってってることでしょう、きっと。
下駄のもうひとつの利便は、意外にも高さそのものに関してのものって気がしてくる。根源的ではないにせよ、その精神的な俯瞰が生み出す精神的な余裕が、行動の自己制御力を高めることってあるとおもう。とくに、自らの場所取りについてはそういうところってちょっと実効性があるんだとおもう。

だからといって、無駄に物見高い性質、キモチワルイけど。

まっとうな集団とそうでない集団とでものすごく違うところだろうけど、部長や課長や係長やという役職は、悪く転ぶと下駄そのもの。中身として何を知ってて何が実現できるか、という実の部分が置き去りで決裁権だの執行権だのだけが与えられたのだと信じ込んでる役職名ありきのこと(ヒト)にお悩みのみなさまもさぞや多い事でしょう。
でもまぁ、それこそ役得で、マネジメントの名の下、とくに体を動かすことなく、日経読んぞりかえって、 xls 眺めてるヒトに全体俯瞰でかなわないですな、必至で今の実務こなしてる一般従業員は。まことに残念です。で、さらに残念なのは、管理職、責任ほとんどとらないですね。ボク見た事無いんだもん、本当の責任「感」持った管理職(実質的に収支の結果をかぶる社長業や訴訟受ける取締役を除いて、ね)。だからあさってな指揮・命令権を発動するワ、その結果の不出来を他人のせいにするワ、降格とかの結果責任は果たさないワで、もー、チャンピオン。少年チャンピオン。そんなで良いなら、下駄というハッタリと、引責辞任しないイサギの悪ささえ備えていればそこの場のチャンピオンでいつづけることができてしまう。そこには学習する必要さえ生まれない。そんなこんなで、無駄に物見高い性質ってのは、やっぱキモチワルイんですね、結局。

とかなんとか、下駄方面へ脱線したんで話を元にもどすと。

なんか、足場を広げたい、増やしたいとおもうんです。増やす事ができたならいったい何が実現できるのか、という問いがものすごく大切で、それは結局したいなにかを強く念じる場合に、必要に応じて足場作れば良いわけですナ。で、ボクの場合、何がしたいということよりも何ができてないか、に引きずられて足場を求めてしまう傾向があるので、その点で良いのか良くないのか…よくないことは無いけども、さぞや効率が悪かろう、ということくらいなら割と簡単に予想も実感もできちゃいますね。

そんで、そんな効率が悪い自分についての迷い。

効率悪いままでいくのが性に合ってて好ましい。でも、効率上げないと間に合わない。

何に間に合わない?

きっと、ボクらの世代の、ボクを含むフツーのヒトたちは、いろんな事に間に合わないとおもう。みんなが想ってる以上に間に合わないハズだってのが、ボクの中で結構確信。いままでの当たり前は望むべくもなくなってしまうという確信。嗚呼、恐ろしー。

だからボクは、性に合わない高効率なことを意識してんだし、そのための足場の選定を急いで用意しないといけない気分。

ということを、夏を前に生茂る植物に、知らず知らずに、でもあっという間に埋もれてく自転車を見て、想うのでしたぁー。