モンゴル料理の店でランチ。
火鍋だけでなく、ランチも辛くて美味しい。
が、今回は、ご飯についてではなくスタッフの様子が気になったって始まった妄想の話。
ココのスタッフは皆(「たぶん」なんだけど)中国語を話していた。同じく「たぶん」なんだけどそっちがネイティブでもありそうだった。そして中国語を話しているだけでなく、ものすごくたくさん中国語をはなしていた。つまりおしゃべりだったってこと。
スタッフの 2,3 名が厨房に集って会話をしてると、(もちろんボクには言葉の意味はまったく判らないんだけど)ときおり、というかしばしば、ドッと笑ってみたり、急に侃々諤々になったり。とにかく誰かがはなしてる。テーブル席でオーダーをとるときですら、4,5M 離れた所にいるスタッフとさっきからの話を続けていたりする。
ジャッキー・チェンかって、心の中で突っ込んだ。
これは、(頭割る程)ストイックだなとか、鼻でかいな、とかいう意味でのツッコミではなく、ほとんど定常的に声を出してるし、わざとらしいほどに感情表現するなぁという意味で。
もしかして。
彼の国のヒトたちは、「頭」に浮かんだ言葉を片っ端から全部「言葉」として吐き出してるんではなかろうか? だとしたら、日常会話がとんでもなく愉快(もしくは壮絶)なことになってるんではないか?と想えた。どうなんだろうね。
だって仮にさ、「アナタの頭皮の臭いはきついから向こうへ行ってくれ」とか「オレはオマエのことが大好きだ (man v.s man)」とか「アイツは金持ちだから鼻持ちならない」とか「あのタレントが死んだ事をボクは何とも想わない」なんて考える都度いちいち口に出してたら、そりゃもうそこに起こる「反応」や「反論」の数は確実に増加するし、それらの強度も増すと思える。そういうフレーズは往々にして「誤解」の可能性をふんだんにを含むストレートな表現になるから。
でも社会全体が文化として「考えを口に出す」ことが前提となっていれば、なんとなしに皆それを普通のものごととして受け入れることも可能だろうな。
それに、それを実行することで産まれる良い点もいくつもありそう。本人がストレスを溜めずに済むのはもちろん。相手に誤解を生まないとか、パーソナリティがクッキリ際立つとか。そしてそういうこと以上に、自分自身を含めた自分が生きる環境への制御が効くようになるんじゃないかなぁ。たとえば碇シンジくんみたいに自分客観視病と戦ってるヒマあったら、さっさと外界と向き合った方がよっぽど状況は好転するというような。おめでとう、シンジくん。
翻ってボク自身は、想った事の大半は胸にしまい込んで口には出さないんだなぁ、という反省も持った。これは、たぶん「普段」を生きながら摩擦や諍いを避けるために、または自己PRだか自己認識の保全(バカだとおもわれたくない、気づきたくない)の一環として、はたまた不用意に相手を傷つけたりしないようにと、いつの間にか身につけた「技」なんだろうと想われるんだけど、「技」にがんじがらめになってイロイロなことを味気なく、つまらなくしちゃってるんじゃないかなって感じを覚えた。
そしてこのことは、大勢の社会生活上優秀なアナタタチも一緒だと思う。
そんな折に、こんなエントリーなんかに出くわしたり。
反論を予測しながら書く文章はつまらない。| smashmedia
インターネットかどうかとか、企業か個人かとか、議論かどうかとか、テーマの違いはあるけど、根底にある物事は一緒なような気がしたので、紹介。
ボクらは産まれてからのしばらくの期間、好きか嫌いかの気分だけで、泣いたり笑ったりしていたし、その喧しさで多少周りに迷惑をかけたかもしれないけど、結果としてその主張は間違っていなかったからこそ、いまのボクとアナタタチが元気で立派に生きてるという、ね。
だいたいそういうことを、ランチ中に考えた。
ブログの紹介ありがとうございます。
ぼくももう少しぼくらは思ったことを素直に言えるようになったほうがいいだろうなと思います。さらに言えば、あまりにもぼくらは言いたいことを抑制しすぎてるんじゃないかと思っています。
相手に配慮なくなんでもかんでも言えばいいってもんではないのですが(現実はKYな人たちが言いたい放題で、傷つく人もネットでは特に多いので)、もう少し、ね。
河野さん
コメント、ありがとうございます。
ぼくらはもう少し素直に言うべき。賛成です。他人への共感のセンサーや節度や普通の水準の見識を備えた大方の「ぼくら」は、益を得るために言うひとに負けちゃいけないし、害を避けるために言わないひとになってもいけない。といって、別に社会がどうとか正義をどうとかってんでもなく。単にボクはボクの想った事を率直に言ったり書いたりすることが、なんだかイケナイコトしてるんじゃないかってムードになってしまうのが間違っているように想えて仕方が無いんですよね。文章や言葉の中に、ちょっとした認識違いや解釈の違いやというのは、あっていい。というか、あるからコミュニケーションとるわけだよね?と。
では、ムサ子さんへよろしく。
そうですね。空気を読みすぎるというのはろくなことじゃないし、同時に読まなすぎる人を相手にするのもストレスで、これは難しい問題なのですが、大多数の「ぼくら」に関して言えば、もう少し言ってもいいし、そういうまさに空気を作っていけるといいなと思うんですよね。
相手をわかろうとする、行間を読むというのは、本来もっとできてたはずなんですよね。ネットのせいでここが劣化してる気がします。
ムサ子にも言っときます。彼女は自分に正直に生きてますw
そうである反面、これを広く「ぼくら」以外へ求めるのは相当難しいことだと思われます。自分個人としてはこのスタンスを続けていくという決心は持ってるんですが、他人に求め始めると…すごく方法が無い。結局、法律っていう最終ラインに抵触するまでは放置という…。別のバランスを担保するメカニズムが必要なんだろうなぁと思えます。そのメカニズムが「ぼくら」がもうすこし言うっ、てことなんだろうなぁなどぼんやり。←イマココ
件のエントリー『反論を予測しながら…』を通じてですが、「ヒトの行動」が「ネット」に規定されていて、かつネット全体を指してメディアだと想っているヒトが、かなり多いのかもしれないと推察しました。簡単に言うと読み手は書き手に対して「メディアであれっ!」もしくは「ジャーナルであれっ!」ともすると「論文であれっ!」と想ってる。平べったく言うと「正解のみを書け(というか、オレに読ませろ。こじらすと、ソース出せ。)」と。一方、書く側はといえばコチラも多様。だけどその大勢が職業的使命感を持って真実を追うジャーナリストをやってるわけではない。大半が費用をいただいていない。記事の多くが雑感にならざるを得ない。が、衆目に晒されるのは事実として生じるし、削除しない限り記事の永続性もある。たかだか個人としての雑感が、唐突に社会性を問われたり悪意の中傷にさらされたり、という現実があるということが起こっているんですかね。
そんな混沌状況を推察しつつ、「インターネットってなぁに?」みたいなものの理解をもう一、二段インフラ寄りに、つまり商社もあれば販社もあるし個人宅もあれば通行人もいる海外のひとだっている、そこでは事故も起こるけど大方の場合はハッピーだ、という側へシフトしていかないといけないのかもしれないですね。まぁ、中には文句を言う為に記事をわざわざ検索してる属性もいるみたいなので(道場破りか? と)、もうその辺のメンタリティのヒトは、ネットでないほうの社会で気付きを得てほしいですね。
ちょっとテーマを散らかしてしまったかもしれませんね、スミマセン。コチラの脳内がすこしは整理できそうだったもので、ウッカリ。
ひきつづき、直球の smashmedia で。
まあしょせん個人の日記なんだから、そんなにカリカリして噛み付くなよって話でもあるわけです。
でもそうやって簡単に話を終わらせるにはもったいない現実でもあって、このインターネットという技術、インフラをもう少しだけうまく使えるようになれればいいなと思います。