美しいか、美しくないか。そういうことを幼児期に体験しないと、少し残念な大人になるとおもうという話。


“ビ” の範囲の定めとかよく判らないのでともかくとして、順序とか整列とか対称性とか調和なんかの、ある種の規則性が生み出す気持ちの良さを体験しておくくらいのことは最低限度必要とおもえた。

そういうことを体感する機会を逃した子は、言動に品位が伴わないバサバサしたオトナになるとおもう。

機会を失った子が、後々、一定水準の美しいに関する基準値を持った多くの人たちの中に放り込まれるときがやってくる。すると、他の人たちの「美しい」の感性と、この感性に基づいた行動の様式と行動の理由と、それから周辺の人たちの間で取り交わされる無言のコンセンサスを認知することができなくなるとおもう。認知はできないが、「何か違う」のは感じ取るはずなので、その事にイライラするとおもう。そうするとそれ自体が軽いストレス状態に陥るとおもう。

にもかかわらず、他の人たちが互いに口にはしないが共有している、それぞれの背後に流れるコンテキストが読み取れないわけなので「(自分以外の)世の中の連中はどうやらバカだ」ってことに、本人の中で帰結しちゃう可能性は高まるともおもう。

だから幼いときに、いくつかの要素が整ったときに本人や周辺が気持ちが良いと感じることができる何かを、なるべく多く身を持って体験してると良いのだろうな。それはお習字でも短距離走でも水泳でもピアノでも囲碁でも絵画でも、なんでもよいのだろうけど。ただ賭博みたいに運の要素が多いものはまたちょっと違う。(悪いというのではなく、別種の能力ぽい)

ランチ時、デニーズでだいぶバサバサした女子大生1名と、そんなにバサバサしてないけどなんとなく調子を合わせて笑ってる2名の会話の受け答えを耳にしながら、ふとそんなことを考えた。

ほんとはその子たちのバサバサっぷりのほうがクダラナ面白いんだけど、そっちの内容は忘れた。