記憶の中の出来事を、特に整理もせぬまま頼りにして語るようないい加減なものだから、ことの前後関係が正しくないかもしれないのだけど。
確か、旧 iPad が発売された頃というのは、さてKindle かやれ iPadかという選択で消費者一同は思案をし、購入にあたって決断するようなシーンがあったように記憶している。メーカーが発表する新しい技術、新しいデバイス、新しいコンテンツに乗り遅れまいとする誰しもが、iPad か Kindleかのどちらが(確かnookなんてのもあったな)より電子書籍の読書スタイルに最適なものかを思い、悩んだ。エキサイティングだった。
さてそんな当時のシーンの中でボクは、見た目デジタル時計の表示面のような電子インクの、軽量で物理キーボードがついたキンドルではなく、カラー液晶で画面タッチ操作でインターネットのブラウジングに適していそうで多機能そうだった(そして手で持って読書の姿勢を維持するにはかなり重そうでもあった) iPad の方を選択した。その時から、そろそろ一年が経とうとしてる。
この一年のいったんの結論づけとして、iPad を選んだことは正しい判断だっただろうか、もし正しいとしたら、それはどの点でなのか、とふと思った。答えはこうだ。
過去約1年の間 iPadを使ってきて、トライアルという意義をはずれて、実用的に電子書籍にお世話になった記憶がまるでない。つまり、iPadで本を読んでいない。だけじゃなく、本を探していない。いや、iPadに本を求める気持ちすらない。そんな市場は、iPadの窓から眺める向こうの世界には見当たらない。
キンドル以前、iPad 以前、電子書籍以前、Eインク以前と以後と何が変わったのか。別に何も変わっていやしない。
普段コンビニで買っていた例のテレビ番組情報誌がデジタル・データでダウンロードして見ることが可能になったか。3ヶ月に一度ほどか、発売を楽しみにしている『へうげもの』の最新刊を発売と同時にデータで購入することが可能になったか。遥か昔に読んだことのあるあの懐かしい『坂の上の雲』を ePub で読み直すことが可能になったか。中央紙/地方紙/海外紙が毎朝毎夕、プッシュでタブレットPCへ届くようになったか。
なっとりゃせんよね、いっこも。
たまさか版権切れで、幸い著作権者がオッケーしてくれた、昭和の頃のコミックスが、115円だかなんかで、誰かさんの市場調査がてらに販売されているだけのお粗末な状況と、大局としてなら、言って差し支えないだろうと思う。その証拠に、ボクのiPadアプリのなかで、最も使わない方のアプリのひとつに iBooks がノミネートしている。間違ってタップする場合以外に、もう何ヶ月も起動すらしていない。
当初あったタブレット型PCで読み物を買って読むというライフスタイル図は、殊この一年に限っては、そんなわけあるかぃって状況が続いた。そして、来年以降もまだ当面は同じ状況が続くとおもう。ハードが普及しても、インフラが整備されても、皆が今かと待ち構えても、無いものは無いんだから、何もどうにもならない。
この1年で、電子書籍関連でもっとも「有った」ことは、もしドラだの日経電子版だのではなく、「自炊」だろうとおもう。きっと相当数が「自炊」をはじめた。断裁機とスキャナーが話題になった。他の誰かがやってくれないことを自前でやるから「自炊」だ。コックが作れないから、作れても不味いか、高いか、遅いかだから、客が厨房に立つ。「自炊」は、そういうことと思う。
そんなこんなで。
出版市場の硬直により、電子書籍端末としてのiPad 購入は間違いだったという結論。だけど電子書籍以外の領域がとても意義があったから選択したことそのものは大正解だった。
電子書籍市場の遅々としたこの状況が、先日発売された iPad2 の1年の間に変わることを期待するけど、この過渡期は長らく続きそうだともおもう。
もしも本というパッケージの存在がテキストコンテンツ流通のひいた風邪を拗らせるなら、いっそのこと、記者が、作家が、コラムニストが、漫画家が、取材単位で、ページ単位で、章単位で、あるいは定期購読形式で直接売り出してくれたらいい。それは、俗に言う電子書籍の体裁でなくて構わない。