そろそろ楽をさせておくれよ。
そういうムードだしてる、もしくは言葉で言っちゃっている人とその取り巻きについて。

20代、30代の若い人たちはもう、その言葉を耳にした瞬間あるいはムードを感じとった刹那、その会社へ、組織へ、部署へ、係へ、上司へ、ぶら下がって生きている限りにおいて新しくて、世の中に必要とされる、胸を張ることができる誇らしい仕事や、胸躍るような活躍をする自分への道は閉ざされたのだということを悟って、さっさと見切りをつけると、今より少々満足な生き方に一歩近づくのではないかと。思います。

新しい価値は、活力からしか生まれないから。

人は、というかボクは、何かに飽きた疲れた瞬間に、やはりダメになるんですよね。どうダメになるかというと、心が弱って目標値を下げる、とかいうことを安易にやってしまうのです。このことについてピンとこない人は、とりあえず腕立て伏せを目標 1,000 回の設定でトライしてみてください。きっと途中で目標数値を下げる理由をたくさん思いつきますから、是非。

で、「そろそろ楽をさせておくれよ」の人というのは、俺はもうパフォーマンスするつもりは無いんだぜ。いままでの俺はよくやったとおもうぜ。あとはお前がやるべきなんだぜ。そして俺は楽をさせろという権利を持っているんだぜ。と言っているわけですから、もう流しに入っていて未来を創造する予定がない訳です。ややもするとおしぼりでありヤクザであるわけです。たかりといってもいい。すると、そういう彼に着いていってしまうと、ともすると今現在は楽チンなわけですが、そっち側の未来には、まだ世に無い新たな価値を作り出すという青写真は組み込まれていない、そういう可能性が甚だ高いわけです。

若い人にとっては、そういう楽をしたがっている人たちへスッと手を差し伸べて助けてやることが、もっとも簡単な部類の自分の価値の売り込みではあるのですが、方やしぼみ行く未来といいますか、そういう尻すぼみのストーリーなんであると判じておくと、先々、色々と無難であろうということになりそうです。

なおかつ、もしも「仕事」がA地点からB地点へ重さ100kgを運ぶことであるなら、効率化などしようがないのです。仮にもっとも仕事が効率化された状態を想像するなら、100kgの上に座っている「そろそろ楽させておくれよ」を退かすこと、くらいしか選択肢はないわけでして。だからって、退かすことを薦めるわけではないのですけどね。感謝しつつ、邪魔しないでいてもらうという、ね。口だけ挟むタイプのアレ禁止ねということ。イチローのバッティングとかにディレクションとかね。

おしなべて、若い人は体力も気力も想像力もよく働く脳みそも可動域の広い軟骨もふんだんに所有していますから、楽にこだわらずに、常識にはクソでも食らわせて、未だ見ぬ新しい価値へトライした方がいいとおもいます。
まあ若くても惰性でやってくのがお好みな人もいるのでしょうが。


なぜ、仕事ができる人は「効率」を無視するのか?―逆転発想の時間術