残念ながらほとんど全く Maroon5 のことではない。

自分の生活を満たすために、あれこれ購買業務に勤しむ。消費という名の業務をこなしている。あたかも個人的購買セクション。度を超すと経理に怒られるとか。いま左に「度を超すと」って打ったら、「度をコスト」って変換されちゃうデフォとか。無いお金と、無い時間と、無い体力をごまかしつつ、やりくりしつつ物を買うですよ。いまよりちょっとだけマシになろうとして、もがく。

そんで、一個の消費者として、一個人(「私の時間を愉しむ実用情報マガジン」のアレね)として製品・サービスに触れあうところと、もう片方で仕事をしている自分個人として製品・サービスに触れるところとが、根っからの子どもでないかぎり誰にでもあると思う。二個の心のもとで自分で手配した製品なりサービスなりで一定の満足をつかむことができると、見事満足を作り出す事に成功したメーカーなりサービサーたちへの羨ましさが、とても個人的で極ちいさな満足心に満たされて漂う間もなく、直ぐに追っかけで迫ってきて、自分個人の仕事観について今一度顧みざるを得ない心情に立たされる。

もの(価値)をつくる、もの(価値)を贈る、そういう行為の生粋なところまで、頭の中を巻き戻ししたいかもなこりゃ、と。ボクとアナタと彼と彼女が生を受ける前から時代があって、その次に今の社会があって、社会の中に自分の能力の受取手であるべき人がいて、そのために自分の能力があって、この能力を養うために自分がいる、生業があるとか。そういう物事の順番の中で確りと訓練し直さないと、結局のところ地獄の釜の中みたいに混雑してる時間と人の流れの間で、ほんとうはそうしたくないような事をしたり、そうみられたくないなって思うって理由で日和ったり、よもやそういうことを良しと自分自身を再教育したり、本論でないことに奔走するだけなんじゃないだろうか、と怖くなる。
それはあたかも、朝8時半のJR山手線(中央線の方がもっとかな)の入り口の方に乗ったみたいに、降車客に蹴飛ばされ、乗車客に睨まれ。そうやって2ヶ月も過ぎた頃にはその場でのスマートではあるが意味の解らない身のこなしを、暗黙のルールを、ボクとアナタと彼と彼女は確かに身につけるんだけど、それって別にボクとアナタと彼と彼女には本来は何の価値も無いという、ね。そういう無駄の獲得に達成感を覚える感覚が恐ろしい。小さいな、オレ。

果たして、経済社会の一般論として最も効率よく利益を生み出す体裁のプロダクトってのは目指されるべきことである。そのメーカーにとっては。別にそれは好きにしたら良い。居もしない法人格つかまえて言うも変だけど好きにしたら良い、メーカーさんよ。
けど、それが市場の原理に乗っかって成功してゆく良い製品かどうかというのは、プロダクトアウトでは決まらない。市場の、特に購買者ユーザーのハートを射止め、つなぎ止め得るものであることが、まず先にある条件で、その条件を満たせないのならば、どんなに製造原価が低くても作るだけ無駄。で、どんな人でも、どんなメーカーでも失敗はする。「無駄」をやってしまう。あまり誰にとっても欲しくない、万が一ほしがっても手に取るとがっかりするそういう製品を作ってしまう。そういうガッカリ製品を作って仕舞った場合にどうするか。法人格さんは、だいたい、売るんです。むしろ売り払おうとするんです。これもちゃんと部署ラインがあったりして、健(したた)かです。王道は、値を崩して在庫を捌ける方法。市場原理に則ってて、正攻法といえます。言い分としては我が社の利益を削って、あるいはマイナスになっても、製品を顧客へ届けよう!(いいからとにかく売り上げだけは作ろうゼ)と。良いんじゃないでしょうか。次に挙げておきたいのがプロモーションとPR。本来の位置づけは、公知広告。こういう便利で素敵な製品がありますよって事そのものを広く報せるということがその主たる目的ですよね。この辺りも使い方一発で色々やれる、やりつくしてるわけです。そしてまだやりようがあるぞとか言われてもいるわけです。報せる行為の根幹はイメージ戦略基調になりますから、期せずして製品サービスの本質如何よりもボクらの心をくすぐる情報を着せられて製品は売りに出します。それは詐欺や騙しといった物騒なものではもちろんないですが、第三のビール的な何かしら、あるいは稽古かかわいがりか的な何かしらを含んだものであることをよく意識した方がいい。決して嘘ではない。嘘以外の、ボクらの目を眩ませるなにか。ボクらに内在する射幸心の大好物。

法人格側のマインドとしては確かに物を売る沢山の手段を発展させてゆくのもいいんだけど、消費側の理論としては、手にして嬉しい、使って嬉しい、そういう結論付けができるかどうかが消費行為の本論にあるのに代わりはなく。それ以外は、自分への言い訳でしかないというか、買うべき物を間違ってしまったか、射幸心にあてられてオーバースペックを手にしたか、製品の本質を見抜く選球眼が足らず涙をのんだか、という風な理解で良いんじゃないかと思われるのです。俗に、掴まされた、のですね。しょうがない、そういうこともあるよ、だってそうやって物売ってるんだからさ。そこはそこでの凌ぎ合いがあるさ。本質とは別で。

とはいえ、巷にあふれる製品・サービスは、必ずしも手に取ったときの喜びを伴ってはいなさそうだという不思議が当たり前になっているような気がします。そんな風に変な感じになっちゃう根っこには企業の(屁)理屈が強く影響している気がしてならないわけです。
ここで屁といってるものの例を挙げると、君の部門の利益率は…とか、私の今月の売上高は…とか、本製品のユーザー満足度調査によりますと…とか、競合他社を調査したところ…とか。それぞれ一つ一つは、企業活動の指標として重要であったり、消費者マインドを知る手段として大切なことなんだろうと思われるんですが、指標そのものや調査行為そのものが目的化してしまったりすると、もう全然ナンセンスに化けるはずであろうと思うのです。
ものすごく解りやすく言うと、ユーザの満足を満たすために絶対に不可欠な能力を備えた人材の採用を検討する訳ですが、管理部門がね、ダメって言うんだよ、計画に無いって。多かれ少なかれどの法人格もそんな感じでしょ。(まあでもあいつらは、こうも言う訳です。今年の新人は不作と。なんでお前等だけ1次産業従事者気取りかとね)管理のための管理をしてますね、なんて事はもう常態化も常態化です。我が社の利益率のために仕入を下げろ、とかね。それは法人格が生き残るための仕事であって社会に価値を提供するための取り組みでないよね。あとは、なんだろうね。何か売れる商品考えてよ、ってのも今回の話題に関連強いので挙げておきます。もうこれは大問題なんですよ。決して大袈裟ではなく、驚天動地そのもの。信念もって取り組んでいることで、結果として儲けるんですよ。儲けるために思いつく事なんか間違いなくろくな事じゃない。ボクはゆすり・恐喝とか騙しとかドラッグとかしか思いつかない。この流れでは、地中奥深くに埋まった石油よりも高効率で低環境コストなエネルギーを発見しました!とは絶対にならない。そういうことはその道で信じて賭けてやってる人が見つけるんだから。バカこいてるんじゃないですよと。もとい、屁こいてるんじゃないですよ。

それでも、そうやってあるべき本質とは別の手法でもってなんとかしようとしちゃうんですよね。なにか網の目をくぐるようにして。そしてそれがまた本来よりも高く評価を受けたりするです。あいつは会社の事を良く考えているとか、あいつは会社に貢献してるだとかで。あ、そこ、価値の提供先である消費者への貢献は入れてなくていいの?ってフェ…となります。面白いですね。そういう法人格内で飛び交う言葉が、またそれら言葉が造り出す論理が、もっといえばそういった論理に育まれた人格が、買い手の喜びを阻害する商品開発〜お届けスタイルを招いてるところってあるんだと思えて仕方が無いんですよね。

ただこの手の話題のイヤなところは、言い始めると切りがなくなること。1個のワードから20本くらい紐が出てて、これを一本ずつ適正なつなぎ先へ結び直していくんだけど(無論結び先のワードからもまた20本くらい紐出てるけどナ)そのうちの1本が残り19 本のどれかと結ばれている必要があったりして、あまりにややこしいのでボクはもうその解決を諦めます。これはすなわち組織の中での相対的な評価を高めるために自分の価値観を曲げるような行為を諦めますというようなニュアンスで。
仮にそんな紐を解きほぐすあやとりのような空しい時間を過ごすのなら、いっそのこと紐は紐で絡ませっぱなしにしておいてその時間を「ボクは何を贈られたら嬉しいだろうか」と「それをボクがやるにはあと何が必要だろうか」を考える事の為に費やすほうが、きっとボクは幸せだろうから。

だからもうボクとアナタと彼と彼女の2倍も3倍も4倍も長く、この経済社会で教育され慣らされ会社の事を良く考えてきたてきたレガシーな人たちの頭の中を変えるべく説得、説明する努力や時間は(確かに今の給料には化けることがあるかもしれないし、融資を仰ぐとこもあるかもしれないけど)バッサリと削ぎ落してその分の時間と身のこなしを自分の価値観でコントロールすると、色々と捗るかもしれませんよね。ボクとアナタ自身の生き様が。

ムーブズ・ライク・ジャガー。


Moves Like Jagger (Maroon 5)