時代の流れにのって生きてゆくということは、簡単に言うと前時代じゃ考えられないようなアホになるとうことと近いんじゃないかって考察。

Mubz snap, boy

例えば、明治維新頃でいえば、ちょんまげ/非ちょんまげの取り扱いは非常に厄介だったろうと偲ばれます。ちょんまげ肯定派と、否定派とで意見は白熱します。歴史を重んじ文化を愛せない奴らと、脳みそにカビが生えた老いぼれとの争いです。
一方は、その頭にのっけてるのはなんだ?取手か?と。取っ手としてなら役に立つのか?と。もう一方は、最近の若いのはチャラチャラしくさって社会というものを解っとらんと。幾つになっても子供のまんまだと。

さて、時代は今。

フェースブックをはじめとするSNSブーム。インターネットはすなわちSNSなんであるってくらいの勢いです。ちょっと大袈裟だけど。
でこのサービス上で、文字通りの世界中で大勢の人々が実名公開を前提としながら、銘々に紐づく各種の情報をあられもなく登録し公開し共有しコメントし合う時勢です。ネットサーフィンで見た記事ページのクリップはもちろん、居る(た)場所の情報までも登録し、好きなテレビ番組や音楽を公開し、予約したライブの情報を共有し、あの店のランチが旨いの旨くないのとコメントし合うのです。あ、あと顔写真も。連絡先も。

SNS派からしたら、愉しいし、無料だし、便利だし、と。さしずめ、もう髷とかなくない?鬢付けとか面倒くさいし古いし要らなくない?と。愉しい方がいいし、繋がる感じが安心でいいよねと。
かたや非SNS派からしたらこうです。何を好き好んで漏洩リスクを被っているか、空恐ろしいと。さしずめ、髷をおろすなんていうことは社会的な地位を損ねる危険な行為なんだから全く考えられない非常識。個人の情報を晒すなんていうのは自らへ危機を呼び込んでいるようなものです。無知の為せる技そのものですよと。

さてちょんまげの現在。常識と誇りだった髷を結ってるといえば、相撲取りかごく一部の必要あるひとたちで、それは文化圏人口の1%にまず満たないはずです。トレンドは多勢に無勢。常識は変わります。
さてSNSの未来。ちょんまげの事実になぞらえてみると、未来にSNSを使わないインターネットユーザーはいるでしょうか。まず1%にも満たないはずです。ほぼウソだけど。

ほぼウソではあるが、そんな風向きで世の中とインターネットと常識とが変わっていったその先って、ボクらはいったいどんなライフスタイルを過ごしているのかについては興味が湧きます。

たとえば未来の世界では、個人でPCを所有していることなんてダサいって思ってるかもしれない。電波で通信をするのに機械を持ち歩いていたなんて絶望的な気分にさせることなのかもしれない。個人で財産を持っている危険など考えられない世になってるかもしれない。GPSで現在地をトレースできない人物なんかほとんど居なくなってるかもしれない。
で、徹底的にアホになったその向こう側には、そもそも守るべき個人情報なんか最初っから持ち得ない社会がやってきてるのかもしれない。

つってなかなかSFなことに思い耽りました。


BRUTUS(ブルータス)2011年10/15号[雑誌]