もう、スマートフォンやめようかなってはなし。
近頃、スマートフォンとかスレートPCとかの超絶便利な道具から大分距離を置かないと結構本気でマズいことになってしまうんではないだろうかという疑問が湧いてきてて、上手く拭いさることが出来ずにすごしてます。
振り返れば 2008年7月 iphoen 日本上陸!のときにはものすごくエキサイトしたものです。そういえば。あそこから3年以上の月日が経過しました。
便利なべんりなスマートフォンを手にしてからというもの、以前では考えられないような便利、快適、あたらしい、楽しいを享受してきました。
どこにいても自分の居場所が判ってしまう地図サービスに助けられた。ひいきにしているメディアやブログの速報を読むことができるニュースクライアントに張り付いた。俗にいうケイタイでは壊滅的状況だった(カシオ機ではできたな、そういえば)PC向けサイトのブラウジングに感激した。キャリア縛りで考えもしなかった Gmail クライアントにお世話になった。それにゲーム。バイオハザードとか出来ちゃうなんて思いもしなかった。あと Twitterが爆発的に一般化、なんてこともありました。地味なところだと、Facebook や Linkedin や foursquare や evernote やスマートフォンに親和性の高いサービスがアプリのナリで注目を集めましたね。最大瞬間風速的には、ARなんてジャンルもシュッと横切ったりもしました。
それらスマートフォンがもたらす快適が、自分の解釈ではもう節度を超えて、もはや自堕落と呼んでいいレベルに達してきてしまってるんじゃないかと、胸を締め付けてきます。ちょっと大袈裟にいいましたけど。でも、まじめに。幸いにしてボクはtwitter アディクトではないのでそこは全くスルーできて心持ち壮快なんですけど(中毒の人はたいへんだよね。御愁傷様)、それでも、カフェに入ってはニュースチェック、家のソファーでニュースチェック、ランチとりながらニュースチェック、寝床に入って寝落ちするまでニュースチェック。なに?このニュースチェック。そんなにいらなくない?いらないよね。完全にいらないわけじゃないけど、その 1/3 程度で済ませることできるよね。
どこにいても、いつでも、気持ちが動けば、直ぐそこに欲しいものがあるという状況に対して人はどうしようもなく弱く。気持ちの中にある天秤は、なにもしない v.s. ニュースでも読むか、の対決で往々にして容易に右側に傾くものです。暇つぶしと呼びますか。「なんとなく」というのはまさにこの気持ちの天秤の作用のことで、なにもしない(空)の状態は非常に選択されにくいわけです。一見そこに何の価値も含んでいないわけですから、損というか、無駄というか、寂しいというか。
でも、本当のところは、一旦なにもしない空の状態を選択しなくてはならない場合がその実とても多いはずだと考えます。なぜなら、空を経ずして創作はたぶん無いから。暇になったその暇の真ん中で短い長いときを過ごしつつ、んー何か面白いこと探すべかねぇ、とならなくちゃいけない。それだというのに今じゃ暇になったその刹那、胸の内ポケットに手を突っ込んでる体たらくですから、行動の創作なんてものからはとおのくばかり。
いえね、なにも絵を描きましょうとか、ピアノをひきましょうなんてことを狙ってるんじゃなくてですな。家の掃除をやってみようとか、読みかけだった本に集中しようとか、友達と遊ぼうとか、オシャレなアイテムを探しに行こうとか、そういうタイプの行動を想起する力という意味で。これはボクらの親の世代がテレビばっかりみちゃダメだとか、テレビゲームは1時間までねという具合にテレビやゲームを敬遠したのとだいたい同じ行程なんだろうな、と想像します。そこには外へ出て身体を動かせ、本を読め、勉強をしろ、友達を作れというメッセージが含まれていたであろうとも想像できます。そこから四半世紀の時を超えて、今。スマホばっかりいじってるとパカになっちゃうよと、自らを戒める気持ちが生まれたのでしょうね。たぶんね。
という顛末から、スマートフォンやスレートPCらと向き合う時間を上手くコントロールして依存症にならないよう注意ながら共存しつづけるか、あるいはスマートフォンやスレートPCを身の回りから消し去ってしまうか考え始めたところです。これはまさに、というかもはやすでに、禁煙や禁酒と同様ですね。ジーザスクライシス。
そんなような近辺について柳田邦男も何かを語っている模様です。読んでないけど。
壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別