だいたい何においても行き違いや食い違いや掛け違いが生まれるのは、対話の内容というよりもそもそも相手のことが嫌い、怪しい、なんかヤだと考えているところがまずなにより最初にあるってことを考えた方がいい。アイツは判ってない。アイツは間違いばかりだ。アイツにはやる気が無い。アイツはウソつきだ。そういうものを拠り所にして人の話を聞くから、ややこしく、こじれてく。

人なんて、一定の傾向を維持できるほど上等じゃない。都度、違うことを言うし、違う態度をとるし、出来てたこともできなくさえなる。もちろんウソだってつくし、間違いもすればそれを正しもする。そうであってなお、その変化に対して責任を追う必要は無い。だから時々刻々変身してるようなものなわけで、そういった客体の状況を勘定せずに主体の側にとって理解しやすい枠にはめて、現象や未来の方向性や言外の中身を解釈しようとするから、おかしなことになる。

肝心は、この理解しやすい枠というのは主体本人が楽をするのに大いに役に立つ道具であるということ。逆さに解釈すれば楽をするためにこそ用意するもの。だから理解しやすい枠は客体や現実の世界の状態に縛られない。遠い昔に切欠となる印象的な出来事はあったかもしれないし印象的な人物があったかもしれないが、さりとて今の眼前の現実とは何も紐づかず独立したユニークな観念と言っていい。日本人は勤勉だ。A型は几帳面だ。乙女座はロマンチスト。あの顔は意地が悪そう。デザイナーだからオシャレに決まってる。あの手のタイプは仕事が出来るようにならない。彼は普段から遅刻がちだから今日だってそうに決まってる…。そうであるにもかかわらず、その理解しやすい枠は、主体にとって楽であるという強力な好子に牽引されて毎日毎日強化され続けてゆく。今の現実を切欠としない全くユニークな観念が確固たる真実として、主体の心に固定する。

このことについて相当する量の意識を支払って持続していない限り、俗にいうところの眼鏡の色はずんずんと濃くなってゆき、しかる歳月の後には主体本人がユニークな観念の僕として、類型によって人を理解し、本来よりずいぶんと狭目の生涯をおくることになる。


W-69 心理学的類型 (中公クラシックス)