2012年の3月11日です。「あれから一年」と誰もが言う、言うべきことを言う、この日です。
あれから一年 – Google 検索 http://j.mp/xe7uFr

ボクが直接体験した「あれ」は東京で体験したビルの揺れであり、驚きのヘルメット避難であり、早退であり、自宅に積み上げた物品の崩れぶりであり、突如として起ったコンビニの品不足であり、交通機関の麻痺と帰宅困難の有様であり、テレビ越しに見る巨大な津波による被害の報道映像です。その後の継続的な買い占めによる品不足、水不足。そして後を追うようにしてテレビで報じられた福島原発の一連の危機と、核燃料と原子炉の高温化へ為す術無い有様と、放射性物質の飛散と風向きについてのえもいわれぬ暗い不安感のことです。それと、付け加えるならポポポポンのシグナルが不安喚起と直結するという刷り込みもありました。ポポポポンシンドロームにうつむき加減だったこと、加えて東京でにわかに疎開の話題がまことしやかに聞かれるようになり、そして実際に3/11以前よりも如実に日中の東京の人口が減った事実と、仏在住の姉夫婦から寄せられる不安の声などいろいろなものに背中を押されて、週末の3日間だけ急遽実家へ元気な顔を見せに帰省して、そして齢 90 を越えためちゃくちゃ元気な爺ちゃんと油まみれのハワイアン・ステーキ&コーラを食って、そしてまたどんよりとした空の羽田へ舞い戻って、前よりもずっとトーンダウンした日常を再会しました。ペットボトルの水しか口にしなくなりました。大きめのリュックサックに避難用荷物を詰めて置きました。小さくて強力なペン型ライトを通販で手に入れました。ガイガーカウンターは高価で手が出なかった。

そういった恐怖や不安、苦痛や悲しみ、難儀と出費は経験すれど、幸いにして、ただの一人の知人も地震と津波と原発事故の直接の被害者にはならずに済んだ。それが、ボクの「あれから一年」の「あれ」の部分。自身の体験ということで的を絞れば、たかだかそんなものでしかない。

言うまでもなく被災の日そのものからの経過が一年であり、あの一日を経た日本人ならあれがどれだけ大きなダメージであり悲惨な出来事だったかを肝に銘じてこの先をやってゆくことが、起ってしまった出来事へ報いる唯一の手だてだから、そうするよりほかに選択は無いんだけど、おしなべて総ての人間が、あの日起ってしまった「あれ」の総てを背負って、あるいは「あれ」の総てを自分が体験したような顔をして、生きてく必要は無いんじゃないんだろうか、と思う。

ほとんどの幸いなボクらは、せいぜいテレビ越しにあるいはせいぜい事後の現地を訪れ、事の次第を眺め、憶え、我が事として受け止めようと一所懸命だったとおもう。この共感というものは人間の社会的な活動においてこの上なく重要なことではあるけど、それでも自身の身に起った出来事とそうではない出来事とを区分けする必要はあって、だれもかれもがあの日、あのとき、あの場所の、あの人の、あの辛さ、悲しさ、恐さを自分のものみたいにして「あれから一年…」とつぶやくとしたならば、それはいささかズレた風潮なんじゃないかと思う。

身内や知人や拠り所を失った人にはその辛さがあり、家や土地や財産や仕事を失った人にはその悲しみがあり、決して越えられない共感の壁の向こう側にしか、ほとんど何一つ被害と呼ぶべきものの無かった幸せなボクらは居ようが無いんだから。であればこそ「あれから一年」なんて言って悲しみの模倣になんかに浸ってないで、そこはきちんとあの日を忘れない手だてとして Google カレンダーなりお好みの手帳に毎年1回この日にアラートが出る様に設定していればよろしく、そんなことよりもむしろ被害地域とその住民の復興のために、前に進むために出来ることをたったの1個だけ実行したらいいんじゃないだろうかとか思う。

忘れないことは大切だけど、忘れなければ何かが生まれるかというとそういうことでもないのだから。越えられぬ壁の向こう側の人へ頑張れだとか負けるなとかちゃんと覚えているよとかの声援を贈ることよりも、まずは幸せで冷静で豊かで直ちには困らないボク(とアナタ)が、たかだかあの日を忘れない程度のことに慢心しないで、あの日以来学ばせてもらったはずの正しいことを粛々と進めたらいいじゃないの、という風に思われるのです。


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