そういえばさー・・・。・・・あ。・・・あ?・・・ぬおー!こんちくしょおおー!

みたいなやつ。

怒りがスロースターター|fly-g式

そうよね、あるよあります。そのタイプのコンチクショーのこと、わかります。ボクもだいぶボンヤリした方だから、沢山の数経験します。その場では、そりゃ怒りポイントの認識は一応あるんだけどもそんなんより、もっと重要かつ緊急かつ建設的な事柄を優先して薦めるもんだから、基本スルー。で、一段落ついて、ほっとして、振り返って、ボッカーンとなる。だいたい家に着いてからとか。

で、面白いもんで怒りって自分の内に閉じ込めてるときにすごく温度が上がりやすい。独りだと妙に熱伝導が高いし、それに燃料だって無限なんじゃないかってくらいに涌いて出て来る。おそらく無関係のことなんかも燃料として釜へぶち込んでる。このさいだからアレもコレも燃やしっちまえてなかんじで。そんなこんなでものすごい高い温度でゴーゴー燃えて、その熱がなかなかの量のエネルギーに転嫁されて、普通に考えたら解りそうな誤った、というかすこし常軌を逸した思考過程を踏んで、普段よりスパイスのきいた結論を導きそうになる、おまわりさんこのひとです的な。は、言い過ぎだけど、ちょっと今から電話したろかしら、てくらいには直ぐなる。俗に気が収まらん状態ですね。

良く言ったらそれは情熱なんだろうし、上手く使うことで普段はとうていやれないようなことへ挑戦できる、意外な高みを達成してしまう、スーパーサイヤ人になれるようなところもある。そういったメリットを主にして眺めればもしも怒りのコントロールに長けてたなら難局に向き合うときに頼もしいんじゃないだろうかとか思うんですが、ボクはからきしダメ。その辺の自己統制術が備わって無い。どちらかというと熱量に簡単に支配されて、単なるダメな人に堕ちてしまう。それはもうヒトというよりか、イヌネコの世界。スーパーサイヤ人になれたら格好いいけど、どっちかいうと満月を見てゴリラに…のコース。
その辺の技量と器の不足を自分で認識してるせいなのか、偶々なのか、はたまたDNAの賜物か、ふだんから脊髄反射的に怒りの釜に火を入れることを、忌諱してるとまでいかないにせよ、いつでも気軽に手の届く範囲の選択肢には並べていない。はさみと包丁は引き出しにしまっておけてなもんで。

そのかわりに、再構築能力とか、理論とか、共感とか、変な方向に向いてるセンサーとか、スルーとか、他の道具を使って局面を越える、避けるスキルは結構高め。怒りたくないから、問題解決にあたる。怒って打ち負かしても、怒って返り討ちにあっても、どっちにしても遺恨が残る。怒りもいやだし遺恨もいやだ。だから解決しなくちゃなんないってことなんだけど。

基本的に日常生活のうち7割、8割は解決可能だとおもってるんだけど、どうしたって解決できない場合ってあって、それは相手がヒトでない場合と、相手がヒトでなしの場合。物へ怒っても仕方ないし、物へ解決策を提示しても仕方ない。人でなしへ怒っても仕方ないし、人でなしへ解決策を提示しても仕方ない。これはもう例のアレです。養老先生がいうところのバカの壁。確実に在る。それ込みで全地球を愛するしかボクらに選択肢はない。
で、相手が物ならまだしも、相手が人でなしとなると、これは全力で、万策で、絡まない。本当は絡む必要がある筈のところもあるんだけど、それでも絡まない。拳を前へ出して、肘をピンとはって、絶対に期待を寄せない。普通を求めない。放った言葉が意味を伴って人でなしへ通じてるなんてような甘い考えはしない。ほんの少しでも期待したら、ガッカリするから。自分が。その途方も無いマジカルロジックに。不思議遊戯に。

人でなしとはいえその不思議遊戯には程度が様々あり、その程度次第では受け入れ不可能ではないこともあるんだけど、元来ボクの器はそうそう大きくはないので、というか醤油皿くらいなので、遊戯の不思議度に対する判定のボーダーは厳しい。不思議指数でいうと、俗称天然かどうか。これが醤油皿のヘリのところにくる。

例えば、場が某かの反省会なら会の意図からして、はい。はい。解ります。改めます。って向きの理解の様式と理解の表明が要求されますし、その発言をした内8割9割は、知行合一できっちりと仕上げてくる。一で十を知る非常に優れたヒトならその根源的な理由を自ずと発見して後その根源を改める。一で一を知る優れたヒトなら後に同じタイプの行為をしなくなる。これは真っ当な人です。素晴らしい才能です。醤油皿の内側で、どうぞ宜しくお願いしますとこちらから頭を下げるレベル。

でも、1割か1割弱程度。はい…。ええ…。そうですよね…解ります。以後改めます。と、申し受けた後の様子がおかしい。いま、まさに今こそ改めポイントというシーンで例のごときエラーが生じる。しばらく様子を見守る。いずれの改めポイントにおいても信頼の再現率。どうしたことか。あのとき話し合ったじゃないかとおもって問いただす。改めるべき内容はおろか、あの場で交わした会話をすら喪失してしまったボクの知らない新しい誰かさんがそこに立っている。そうね、正直言って立っているなんて愛嬌ある佇まいじゃなく、正確には建っている。この方が相応しくみえるほどの脅威。心がザワつく。
時は6、7年前。とある納品間近の日。デザイナーは、文字通りに寝食を忘れ、一睡もせず、ただひたすらにモニターの前を離れず、またマウスも彼の右手から離れることはなく一晩を過ごした。ボクは自分の仕事をしてる振りをして別の島から見守った。翌朝の定刻。モニタに映し出されるデザインはただの 1 ピクセルも動いていなかった。そのとき彼はただそこに建っていた。そのとき覚えた戦慄。コ、コワい。

話を戻すと前者の例では、何か指摘を受け始めた少なくともその瞬間から、意識を遠い宇宙へ音も無く射出し終えている。既に向こう側で王冠に縦縞のフワッとした半ズボンでサン=テグジュペリ。現実にそうかどうかではなく、そうと見るのが適切。で、早ければお説教が終わる頃に、遅い場合には会が終わる頃合いに、沢山の優しさを終えて無事地球に帰還する。また行き先はケースバイケースで、ラッキーな場合には此方の世界とかなり似たでも少しだけ違うパラレル・ワールドだし、非常にラッキーな場合には現地から Live の交信もなんとか可能。反対にアンラッキーな場合にはその行く先はやはり、例にある通り、彼方宇宙である場合や、深遠なる禅ワールドである場合や遥か未来である場合もあり、いずれのケースも交信そのものは途絶えることはないが、基本的にはクライアント端末で自律応答処理(学習アルゴリズム備えない)を走らせるというのが共通フォーマットとして採用され最も普及が進んでいる。特に天然情報システムに疎い人向けに解りやすく表現すると、そもそも聞いちゃない。もしくは相当似たテーマと構成のでも全く別の映画のことを話し合ってる。どこへ往き、何を想うかということではなく、むしろそういうシステムに向き合っている、いやむしろ向こう側から見た場合にはそういうシステムに組み込まれているということを心得ることで、少しでも怒りを抱くことを抑制するというのがここでの要点。ここらで一旦結論づけるならば、注意を受けたその耳と、はいと発したその口とは全自動的に連動しているんだけど、耳口と脳とが互いに独立して機能している。ここに一本の線が引ける。この線こそが天然のコチラ側とアチラ側を隔てる赤道。これが天然のガイドライン。

怒りと器、人と人でなし、そして処世で語ると、怒っていいのかよくないのか今ひとつ判然としないからギリギリ醤油皿のヘリの方に置いておいてる、それを分水嶺と呼ぶならそれにあたる存在こそが天然と呼ばれる部位なんだ、と。そして天然へ怒りを向けるというのは、それはあたかも風雨にまたは建立物に怒りを向けるのと概ね同様の行為とでき、かたわら天然とは自然であり、自然とは人への恵みと脅威と言い換えてよいのであるからして、これを心得て挑む、避ける、共存する必要がある。また確率論的には天然というのは1割弱ほど居り、それは同時に私たちの暮らしが1割弱の確率で理不尽な怒りの材料に晒されているということ、そうやってなお生かされているということについて、我々は今一度意識を明確にして、己の怒りと大自然とに向き合うべきなんだと、いいたい。


バカの壁 (新潮新書)