Facebook が Google よりもアクセスがあるというような昨今。ちょっと前までならとうてい考えられないような状況です。というか正直に言って、ボクには、今にいたってすらもにわかに信じがたい事実。そういう風に思うのは、なにも Google 信望者だからなんじゃなく、人々がインターネットを使うということにおいて、読み手側から書き手側にシフトしたってことなんだろうと考えるから。

たとえばブログを書いている人なら直感的に解るとおもうけど、インターネットにアクセスしして物を書き付けるということはなかなか面倒なことで、何度も推敲して、何度もブラウザのリロードをして、プレビューを見る。ひとつのポストをするのに十回のリロードをするなんていうのは全然珍しいことじゃない。いまネットに繋がる多くの人にとって、Google じゃなくFacebook、見る物じゃなく書く物になったというのはそういうトラフィックの変化が起っているということなんだろうと推察しても良いんだと思います。仮に十回というのが言い過ぎだとしても。

Facebook のアクセスが Google へのアクセスを越えましたよということの背後にそういう雰囲気を読み取るとすると、本当に凄い質的な変化が起ってるんだとおもいます。とくにインターネットを構成するコンテンツの質について。Facebook より一足早く似たトレンドでTwitter があったろうとおもいます。現象としては同質ぽいですが、Twitter のアクセスが Google を押しのけたというのは未だ聞こえてきません。ので、ネット利用者の構成が読み手から書き手へシフトしてるってことだけで、すべてを説明できるわけでないことも推して量るべしだろうといのは、言うに及ばずですが。それでもGoogle の時代から、Facebook の時代へ。検索の時代から、共有の時代へ。で、いろいろ大きく変わるだろうとおもいます。いろいろ大きく変わったなとおもいます。そしてボクもインターネットへの価値観を変えねばばならないなと感じてます。

話は転じて。唐突ですが、ボクらには信仰の自由と発言の自由とがあります。これは憲法で約束されている自由です。でもだからといって、それらを積極的に行使してきたかといえばほとんどの場合にはまったく意識することなく生きてきました。ただ日々の暮らしの中で、何者にも制約されることなく好きに物事を信望したり、個対個の所謂普通の会話のなかで何者かの制裁を臆することもなく言いたい放題に語ることができています。どの場合においても、何者からも咎められるようなことは、まずありません。そういうソフトな自由を愉しんできました。どちらかというと発言をすることを保護される意味での自由の約束だろうと思います。ですからアグレッシブに言論を武器にキワキワのところを歩もうという人、それはたとえば論壇や分断や報道や政治(家)や宗教(家)や、以外の人にとっては発言をする権利を保護された状態でありかつその行使を留保した状態を維持してもいるわけです。簡単に言うと、好きなことを言うこととおなじようにして、押し黙っていることも同時に自由であり、後者は出ない杭は打たれないという面で楽であるという付加価値もあって、普通のボクらは後者に寄って生きてます。それは、怠惰なようであり、でもとても平和な状態でもあります。

ところが、場が Facebook になってくると、基本的に皆、言いたい人の集まりなわけです。検索したい人、調べたい人ではなく言いたい人。もちろんリードオンリーの人がアカウントを所持していても一向構いませんが、言いたい人、見せたい人というのがどちらかというと主導を握る、言いたい見せたいひとのための世界が Facebook と言ったとしても、それもまんざら言い過ぎではないんじゃないかと思います。原理原則として、言いたい人がコンテンツを生む、それを誰かが見るというわけですから、言いたい人の世界がまず先にあるという。言った者勝ちというのは、どこの世でもそうな気がしますしね。

ところで、インターネットなるメディアが誕生する以前と言えばボクたちの世界は、とても限られた狭いものでした。世界のどこかに驚くべき風景があるとするならそれを報じるのはカネタカカオルでした。世界のどこかにびっくり人間があるとするならそれを報せるのはキンキンの勤めでした。戦争の悲惨さを知らせるのはばあちゃんの仕事でしたし、となりの中学の荒れっぷりを報せるのはやんちゃな友達の役割でした。他府県の名産がキャッサバであるかどうかは公地公民の先生の口から聞くばかりでした。それに待ち合わせの場所と時間は絶対に間違っちゃいけないものでしたし、そのせいで人と人が仲違いをしたりもしたんだとおもいます。脇道に逸れましたが元に戻すと、殆どのものを言わない人と、極たまに出現する言う方の人の構図で世の中は十分に回っていた。それで良かった。そしてその分、世界は聞いて初めてへーという、聞かなきゃ一生存在さえも知らないような謎でいっぱいの場所でした。

もう一回 Facebook に話を戻します。ここではもう、知り合いの誰が、今、どこにいるのかを、知りたくもないのに知らされてしまうような状態です。知り合いの誰が、今、何に不満を募らせているのか。知り合いの誰が、今、何のメニューを食べているのか。知り合いの誰が、被写体としての自分のどの角度からの写真を、カッコイイと思っているのか。誰が何を考えているか。誰がどこにいるか。誰が何をしているか。そういう一向知りたくもないアレみたいなコンテンツを生み出すことを、人類全体の何%かでもって、ライフワークにしています。それが Facebook が Google よりもアクセスが沢山あるということの別の表現になると思ってます。

Faecbook と違って目に触れない情報の行き来についてならば、古くから電子メールがあったし、そこでは Facebook と同様に沢山の凄く個人的で身勝手で目も当てられないような内容の情報が垂れ流しであるはずというのは想像に難くありません。そういう垂れ流しは Facebook に始まったことじゃないと言えなくもないわけです。が、垂れ流しのアレが眼に見えてしまうというのは、それだけで中々罪作りなものであります。瞳に映ってしまうソレがアレの場合には、その時点で相当厄介な問題です。道ばたに、玄関に、フローリングに、キーボードに、鏡台に、そこかしこにアレがゴロゴロしていたら生きていかれません。もしもそんな世の中になってしまったら、蓋は偉大であった、とかやや哲学的な響きを携えて言い合うようになる気がします。でも現実に、ノートPCで、スマートフォンで、そこかしこで、インフラ Facebook に触れることが可能になってしまってから久しいです。ボクたちはずっと手のひらの上でアレを瞳に映し出す機会を得てしまいました。ボクはSNSに捻り出され続けるアレがあまり好きじゃないのです。これがこのエントリの核心です。ボクはアレを見るのが好きじゃない。

情報が有用か無用か、そういう判断基準もあるのですが、だけど単に無用だってだけで嫌いなどなりはしません。好き/嫌いにおいて重要なことは臭いか臭くないかですし、黒いアレかそうでないかの美観の問題です。ボクに限らずノーマルな人なら誰だってアレの匂いは嫌なものですし、公衆のトイレではアレの流し損ねに出会わぬ様に祈りさえします。それでも出会うわけですが。

ボクが嫌いなのは、知人の誰かが別の知人の誰かを好いていないことを間接的に知らされてしまうことです。あるいは知人の誰かが、会っているときの印象とは別に特定の事柄へ不満を募らせていてそれを隠れてぶちまけている様を目の当たりにすることです。あるいは、彼らがボクに伝わっていないと信じていることですし、あるいは、彼らがボクへ暗に伝えた気で居ることです。あるいは。あるいは。あるいは。

さて。いま改めて、ネットではプロの書き手が求められてしかるべきなんじゃないかとか思いはじめています。彼らの文章は安心です。たとえそれが誹謗中傷めいていたり、スパイシーであっても、あるいは思想として賛同しかねるものであったにせよ、最悪において全くの無責任な姿勢である場合にすら、読み手がいること、様々のステークホルダーが居ること、無論傷つく人がいること、将来にわたりずっと残る代物であること、そして書き手への責任の追及があり得ることを知って創作されたものだから。一言で言うなら公であることを書き手が知っているというだけで、すごく安心感を得られます。これは読み手にとっては代え難い価値です。そういう意味あいでプロという呼称を採りましたが、本質は、公性への理解を求めるということ。面白いことも、正しそうなことも、意味深いことも、馬鹿らしいことも総てにおいて公性。
面倒くさいようなことを書きましたけども、要するに覚悟の量なり、社会性なりを十二分に備えた書き手のメッセージにこそ触れたい訳でして、日々億単位で捻り出され放置され続けるアレの放つ悪臭に、頭ではそうしちゃいけないって解ってるのに思わず目を向けてしまって、視線の先には案の定真っ黒いボッテリしたアレが転がってて「あぁ…見てしまった」となるようなことは、ボクに限らず、実は誰しもが望んでないんじゃないのかなと、そんなことを思ってます。それとも意外とみんなその辺平気なのかな。あるいはむしろ好物だったりするのか。

コンテナーのなかには輸送に値する有意味な物が沢山詰まっていて、有意味な物というのがまさにコンテンツと呼ばれるのでして、通常の価値基準からするとコンテナーのなかにボッテリとしたアレは入れてもらえないのが本来です。なぜならコンテナーにはコストがかかるから。だけどももしもみんなにとってボッテリとしたアレが有償の価値を持つ魅力的なアレである場合に限ってはコンテナーの中に、ボッテリしたアレをギュウギュウに詰め込むことだって、資本主義下では十分ありうるわけでして、その場合には、ボクは一人勝手にその悪臭を放つコンテナーから黙って立ち去るしかないのです。

たとえ公私ともに差し障りが出るにせよ、大切な鼻が曲がってはかなわないから、背一杯距離をとる以外にないじゃないのよ。


もし会社の上司に、Facebookを始めろと言われたら?