容姿と心根とのどちらともが同時にぶすの場合、なんでこんなにいらいらさせられるんだろうか。これと同時に、心根がぶすの場合にはなぜこうも容姿もぶすなのか。不思議。
といいますのも。
日曜日のルノアールで、穏やかな午後を過ごそうと水出しアイスなんて飲んでたら隣の席の、年の頃は 40 代くらいですかね。二人連れの客の一方のぶすが笑うようながなるような大きな声で。「これはひどいっ!これはひどいっ!こぉーれはひどいっ!」とかはじまりましてね。それ以降、1 時間ほどこの「これはひどい」ループ。
そういった、煮るにせよ焼くにせよ炎の方に気が引けちゃうような、出来事、有様、人物です。もちろん、こちらの人情としてもできるだけ全力で見たくない触れたくない嗅ぎたくない心持ちからなるべく惨事から顔を背けていたため類推になっちゃうんですけど、どうやらお互いの iPhone で何かしらの画像検索をしてその検索結果のおもしろさを競い合う遊びが始まっちゃったみたいでして。互いの iPhone 画面を互いにかざし合いの応報となっていた模様。果たして何をキーワードに検索をかけているのかこそ想像が及びませんが、どちらかといえば安っぽい、和柄プリントの保護ケースを着せられたそのぶすの iPhone の画面に表示されてる「これはひどい」といわれるところの写真やイラストが、ボクの目の前に居るこのぶすの大騒ぎぶりほどには不快でないことは想像に難くないところです。
仮にです。「日曜午後 喫茶店 ひどい」で検索をかけたとしたなら、検索結果中もっとも醜いのは彼女の容姿と振舞いとなにより心根であると断言したいところです。まあ断言も何も、そんなキーワードでそもそも検索なんかしないですけども。ともかくただ平凡に世を渡るというのは想ってる以上に難儀なんであり、ほぼ個人の技量だけじゃ如何ともならないところが大でありまして、のんきにテクテク歩いているとアタリ屋よろしく当たってこられちゃうんですから、どうにも世渡りはままならないことです。それでもスルーできる範囲のことならば、それはさしづめ、オーガニック検索。オーガニック検索で上位。違反すれすれのとこまでチューニングされた SEO の賜物です。ここまでならなんとか許せる、しょうが無いよね、色々居るよね、と。
でもオーガニックじゃあきたらず、リスティング広告で力強く推されてきたような不愉快分もですね、このぶすの場合には上乗せされているわけです。なにかこう、ネットでの流行言葉なのか造語なのかを、実際の対人コミュニケーションの場で乱発することで、勘違いも甚だしく、なにやら相手を一歩リードしたような高揚した気分を得たいだとか、まして衆目あるなか恥ずかしげなく騒ぎ立てるなどという、実害。その心のぶすさ加減。心底残念です。もしリスティング広告なら無駄押しして、アドワーズ予算消化しつくしてやろうかしらと思えるほどに。
そうして折角、貴重な週末の豊かな時間を台無しにして不愉快な想いを得たのでせめて、ぶすとは何なのか、考えを得る好材料くらいにしたいと。せめてそれくらいの拾い物はさせて欲しい。
誰しもありますよね、見たくない、立ち会いたくない有り様に、正々堂々正面から向き合わなくちゃならない不細工なケース、ぶすのシーンというのは。受け入れるかどうかはともかくとして、知覚して過ごさなくちゃならないタイミングというのが。簡単な例ですけど、排泄物がママイキでお出迎えのトイレとか。酒が入ったとたんにすごい形相で鼻の奥底に親指と人差し指をこれでもかと突っ込み鼻毛を抜き始めるあの部長とか。歩道向けの窓から汚い足を出して寝てる工事の人とか。クラクション鳴らしている場合には徐行無しで横断歩道へ進入してよいというお勝手ジャッジがデフォルトのドライバーとか。レジカウンターに小銭を投げるアル中とか。小さい例だと共有のトイレでノックはおろかろくろくカギの確認すらしないでノブをゴッ!と捻ってこられるだとか、ね。
これらぶすな出来事は、大体においてその行為者の人間性の観察という深さまでは及ばないわけですけど一事が万事ということもありますから、瞬間「ああ心根が不細工だなあ」と結論するには十二分な状況証拠であるわけです。だって、ぶすはもう指先の動きすらぶすですから。
そしてさらに。心根がぶすであることが確認でき次第に目線を上に上げてその顔を眺めてみればそこにはやはり心根を映す鏡のようにして、ぶすの頭蓋がひっついておるのです。もちろんこれが物的な証拠にあたります。
こうして状況証拠と物的証拠がそろっているので、もうぶす罪かなにかでしょっぴいていいんじゃないかと思うのですが、まあ司法で裁くってわけにもいきませんから、なんとも歯がゆいところです。
そういうわけで、ぶすはぶすとしての自覚を得ることは無く、また、むしろぶすを形成するところの旺盛な自己顕示欲と、格好が良いという事に対する執着心と、格好が良いということに関する誤った尺度・センスによってこそ一層ぶす度が増進し肥大化してゆく一方となります。そのため、ぶすに対峙する謙虚な感性は、ぶすにより行われる精神的物理的ぶすの幅寄せによって日々圧迫され疲弊しきりいつしか破壊されてゆくのです。
ですからサバイバルという観点からするとむしろ、ぶすを司るの塩基配列というのは、生存競争、ことさらストレスフルな都会を生き抜く遺伝子としては甚だ優秀だといえるんじゃないかとすら思えてきてしまいます。
と色々書いてみはしましたが、事の原初に立ち返りますと願いはシンプルです。
その幅寄せは非常に大きな精神的苦痛を産むものですから、せめてもの情けで週末の喫茶店でのぶすだけは本当に勘弁して欲しいんです。嗚呼。