今現在はまだ、東電の事故責任、政府の事故責任、そして国民への負担の転嫁、たまに国民の信を問えば宜しいといった論調が聞こえたりするところからすると場合によっては瑕疵の根本責任の転嫁もありうるけど、まあそんなレンジで話が右往左往してて明日への答えが出るでないの問答に1年が費やされているわけだけど、明後日ごろにある将来のことを考えると、なんとかなんないかな、イヤきっとなんともなんないねコレ全体的に、とやや絶望的な気分になりました。

まずそもそもこんな話を成り立たせて良いのかよくわからないけど、と前置きながら、一般家庭向けの電気料金が値上がり。それと同時に(実際には、先行してになるのか)法人向けの電力料金が値上がり。この法人向けについては法人の皆さんご苦労様ですとか言ってらなくて、その部分の値上げがそのまま販売価格へ投影するからおそらくほぼ全ての市場流通商品が値段が上がりせざるを得ないはず。で、さらには、これらの電力関係の値上げに加え、消費税率も 5% 前後の上昇。ところで家庭用電力料金も消費税の課税対象なんだっけかな?

そんなここんなでなんでもかんでも値上がりという感じなので市井としては、家庭用電力+商品小売り価格+消費税率上昇の分だけ、お小遣いが危機に瀕するというのはほぼ既定路線。オレの財布の縮小が既定路線ってなんだよと思っちゃいますけども、そういうことらしいから仕様が無いです。たとえば月20万円で暮す世帯があったとしたら、ざっくり言って月21〜22万円になるんだけどでも実入りは増えないから可処分のお小遣いを3万円から2万円に下げざるを得ないという具合。飲むしか楽しみが無くて毎週末通ってた居酒屋も、月に2、3回しか行けない。それは仕方が無い。

話を元へ戻して、今日時点の議論でやってる責任追及の問題は答えを宙に浮かせムニャムニャとなって、でもムニャムニャの行く末の着地点だけは鮮明に決まっていて、それは責任の所在は有耶無耶にしながら出来事の総てが一般生活者においてまかなわれるというモデル。そういう責任の原価総括方式だけは確からしくそこにあって、その様はこの国の官僚のひとたちのろくでもない仕事できるっぷり天晴れとか言うべきところなのかどうか。だけどその辺の話はここでは別にいいたいことではなく。ムニャムニャしたプロセスというものは、つまるところログがいい加減であったり無かったりする、あるいは力一杯ログを無視するないし読み解かないということを有効に使うって言うスタンスだから、事の経緯が明文化されることはなく、処理プロセスが評価を受けることも無く、文化として昇華されることもなく、しからば当然この先もムニャムニャを旨とする事の解決の仕方は継続してゆくという、ムニャムニャであるゆえの妥当性検証の出来なさ加減。
そもそも人間というのはあまり優秀な生物では無くて、人間に求めることができるせいぜいのところといえばだ、一度やったとある失敗を「もうやりません」と宣誓させて、仮にもう一度同じ行いを繰り返したならその時には、確りと断罪するというただひたすらそれだけの生き物なのであり、「アレコレしました。もうしません。」の宣誓に相当するところの文化が存在しなかったら、この先の進歩なんか望むべくもないわけですから、いやはや無念。でもそれも仕方が無い。

話が膨らんじゃったんでいったん卑近なネタに戻すと、とにかく明後日には電気使用量値上げ、商品値上げ、消費税の三重苦が待っているということ。で、天文学的確率の奇跡の賜物で一般生活者負担によってまかなわれる予定であるところの、これら三重苦が、むしろ問題はその先にありそうで、実のところそんなんで本当にまかなえるのかい?という問題。いやなにも今日と明日に経済が崩壊するとは思わないし、暴動が起こるとも思わないけど結構真剣に一般消費者消費の冷え込みは洒落にならないレベルへと発展するんじゃないかと思えるし、なにより、国中の文化という文化が冷え込んじゃうのだろうとか考えると斜陽感。実際そうでなくても、CD買わなくなったし、雑誌も買わなくなった。新聞はもとから無視だし、テレビ番組ももはや娯楽としては不足を感じさせるレベル。かといって各種のコンテンツを違法DLするかっていったらそれすらもしない。日々の暮らしが忙しすぎて興味が失せたのか、接点がなくなりすぎたせいなのか。生きてく上で必要で無いと決別したのか。とにかく何か全体的に余裕が既に無いんだとおもう。そこへ追い打ちがかかるんだから、結果は見えてるのでして。
でもって、国内の経営雇用環境なんて要素も混ぜ加えて勘案したらば、製造を中心に日本の企業は海外へ出てくばかりだし、雇用も現地でまかなえる、どころか場合によっては日本人より優秀でそして安いわけで、そっちの方が良いに決まってる訳ですし、もしかしたら彼らの方が文化レベルも高いのかもしれない。もう日本の若い労働世代は居ながらにして洋上の脱水よろしく、実入り無く、消費なく、娯楽無く、ただひたすら介護に費やす時間の割合が増えてゆく一方の人生を歩むのみかと空想したら、空恐ろしいです。ホンダ、Asimo 開発頑張れ。まあとはいえ、子供の頃にたまにみかけたテレビ番組の未開の地の原住民みたいに、不細工な石の臼で揉み上げたなにかネチョネチョした茶褐色のものを上手いこと素手で口へ運ぶような暮らしをしてゆくってのも生き様のレンジに入れてしまいさえすれば、まだまだ全然余裕なんだけどね。そういう暮らしぶりを選ばざるを得ないならそれはそれで仕方が無い。
ともかく、ものは売れないし、欲しくても買えないし、余興的消費は無いしで、いったいぜんたいこの島国には何の価値があったんだっけ?と、他国から思われ、自国民も思う。そういう日がやってくるのはそう遠くないんじゃないかなとか思えてくるのです。流通量が無く、真面な文化がなく、享楽的文化も無く、資源も無いし、技術力ももう高水準じゃ無い。ただ喰うと喰わせるとにあえぐだけという。なにこのいきぢご…。やめとこ。実力なりならそんな感じで、実力外のところで外的な要因だとか、偶然の産物に支えられることはあるかもしれないけど、そんな風に捉えておくのが妥当なんだろうと思う。でも価値が無いと査定されたってそれが事実なら仕方なが無い。

とかなんとかで、文化と経済がダメの二人三脚の様相をうっすら感じてるところ。事実を事実のまま書き留めて紐解きまくった最果てにある失策は失策、捻れは捻れ、安全は安全、経済的困窮は困窮として確り捉えて本質的な課題の設定とその解消を真正面からやる、その実力が無く場当たり的に、総括的に、あるいは寝技的に臭い物に蓋をして有耶無耶を積み重ねて、ミッション(を擬似的に)クリアしてきた歴史があるのなら、それはたかだか当座凌ぎの行為であり、さしずめ破れた肘にパッチワークなんであり間に合わせや誤魔化しと呼ぶべき物なので、未来側から眺めると過去から学ぶどころか過去解釈に混沌を産む甚だ迷惑な負の文化遺産なんだということを、どうにかしたい。まして肘の継ぎ当てなんてのは、やってる本人の心根がどうとか関係なく、無関係の第三者がみたらかえって貧乏臭え野郎だなオイって以上の感想を求められない代物だから、不審を呼ぶことはあっても信頼は得られないですよ。それは件の事故原因や事故や事後処理のことだけじゃなくて、全体的に。冒頭「イヤきっとなんともなんないねコレ全体的に、とやや絶望的な気分」になる、としたその理由はこんな感じ。
どの問題にしたって、誰が根源であるにしたって、どれとか誰とか関係ない。大きな負債を背負うことは決まってるんだから、せめて間違いは間違いとして誤魔化しなしで捉えて建設的に歩を進めたいんだよね、本来なら。もちろんそんなことは望むべくもない。こういう制度の下でやっているのだから、仕方が無い。しかたがない。