馬鹿者についての論を言い始めたらきりがないのだけど。それでも尚。考えが及んでいないことと、それに加えて考えが及んでいないことに当人が気がまわっておらないこと。この2つの条件、内在と表出とが合わさったときに、大間のマグロほどの見事な馬鹿者が完成すると思っている。

通常の人は、学校で職場で地域で生きて育つ中で、晒され試され研磨され角がとれてゆく。俗に常識人になってゆく。人間はそういう道程を歩むようにできている。受け皿の社会の側からそうする要請が明確にあるし、個体の側もその研磨の要請に順応するようにできていると思う。
だけど、個体の順応の度合いにはどうやら思っているよりもかなり広いレンジで分散があることを想定しなくちゃいけない。世の中では、考え足らずとしたり顔の盛り合わせは、結構な頻度ででくわす。しかも幼い児童や若い学生ではなく、結構酸いも甘いも噛み分けていなくちゃおかしい年齢のはずのおじさんおばさん、おじいさんおばあさんにおいて、結構な頻度。

立場的にいっても、人をとりまとめ、事を成すような立派な立場でも相当の頻度で馬鹿者が紛れ込んでいる。もしかすると、一般の社会よりも多いくらいかもしれない。何年か前に言われ始めた(そして直ぐ消えた)空気を読むな!的な。いやそれ、読める読めないじゃなくて、人の話を聞けないという能力面の不全だよ?ってやつだと思う。それに、営業職にもとても多い。これはある意味で適正が合ってる部分もあると思う。自社の製品サービスの中身を知らない、スペックを知らない、用途を知らない、市場における順位位置づけを知らないのに、とにかくノルマを達しようとする。物を売ろうとだけする。そういうのは少なくない。そういうのの声は大きい。買われなかった場合の怒声も殊更大きい。いやアンタからは買いたくないだろうよ。なにのデザイン知識も持ち合わせてないに関わらずちょっとデザインが違うんだよなとか知ったようなこと吹いてたり。そこのポイントについて素人のオマエに何が判るんだよと。本当に枚挙に暇ナシのため、この辺で。

で、ですね。どうやらボクは馬鹿に対してめっぽう耐性がない。らしい。

馬鹿者に対する耐性が、抗体が、ぜんぜんからきしだというその自分の特性を鮮明に自覚できるようになったのはごく最近のこと。ボクは馬鹿者と、つまり考えが及んでいない割に自己主張の箍の外れたようなのを目の当たりにすると、所在ない気持ちになってしまうし、馬鹿から目をそらしてしまう。もう少し言うと、目のやりばにこまってしまう、といったほうが正しいかもしれない。「照れ」るに近い。

眼前で演じられているコレ(馬鹿)は、正視していてもよろしい代物なのかどうか?イヤまさかそんなわけないだろう。コレは世に呈されてはならないものだし、ボクも視なかったことにしたほうが宜しかろう。馬鹿の本人にしても傷つかなくて済むことだろう。そういう風に考えてしまうところがある、らしい。
それに、免疫力無いボクが選択できる唯一の抗体反応は、対応に窮して、あなたは馬鹿者ですねと正面からぶつかってしまうか、あるいは何も言わずブン殴ってしまうとにもなっちゃいかねないから。でも馬鹿は罪では無いのですから、そんなことしちゃいけません。だからボクは照れ続けるのです。

てわけで、何が言いたいって馬鹿の人に対してボクはシャイガイなんであるというだけなんですけども。
そしてボクもどこかの誰かに目を背けさせる馬鹿者であるときがあると思うから、余所の誰かを照れくさい気持ちにさせないよう背いっぱい気をつけたいとか思ってる。


バカの理由(わけ) (役立つ初期仏教法話12)