まずは反芻と記憶の整頓からかなって考えているところです。だってベッドに入ると少しばかり寝るのがしんどくなるほど、くだらない内容の夢に出くわす頻度が高いんですから。おそらく脳が求めてます、またそろそろ状況と精神の整理整頓をと。くだらない内容はだいたい誰だってどんなことだって共通してるところの、殆どのことは決して自分の思い通りにはいかない、ってことの反駁。
解決へ向けた個別的対応を積み重ねてゆくことはもちろん本当は出来るのかも知れないけど、やっぱりそこをスイスイと泳ぎ回れるほど十分な力が備わっていないってところなんですね。修行不足の自分を呪います。やはり個別的失敗の連続で、日々失敗の重みが増してゆくものです。いえむしろ個別的事象の対応内容を自分に素直に設定しすぎているせいなのかもしれませんが。
状況と精神の整理整頓のあらましのなかで今回ことさら目を背けること無く重要視したいと想ってるのが、上でも修行不足を言ったとおりですが、自分の側にあるであろう課題。自分に何か齟齬があってそのせいで状況と精神の整理が荒れるということですから、平時荒れないように注意深く過ごしていることが重要だったんだろうか、という大まかな反省方針です。
齟齬と位置づけるべきモノがはたして何か、については正直自力で発見できるのかどうか怪しいところですし、発見できたとしてもそれの正しさ確度は相当怪しいと言うことはなんとなく解るんですけど、でも、自力で発見するより他に方法がないのが成人男子の辛いところであります。
たとえば。自我、誇り、ずさんな人生設計、ありそうです。夢、ビジョン、生きる目的、目標の設定、道標の有無、これもありそうです。労働についての意義付け、これもかなり疑ってかかるべきだとおもってます。このほかにも、勇気、責任感、集中力、ノリ、テンポ、達成感、行動力、説得力、忍耐力、このあたりになるともうむしろ弱さが認識できてるところもだいぶあって振り返るのがちょっと怖いくらい、です。あとは、戦略性、知識、経験、スキルなどですか。対極にありそうな、優しさ、理解力、包容力、フォロー力、フットワーク、弁済能力、どうだろうな。
こういった一個一個のどこかにあるいは多くの点に齟齬があって、何か上手く振る舞うことが出来ない、たとえば妙にフォーマルな態度になったり、たとえば意固地になったり、たとえば無理解になったり、たとえば人ごとになったり、重く捉えすぎたり、深く考えすぎたり、そうやって自分の首が締め付けられて苦しくなってしまったりするんだろうという、漠然としたものだけど状況理解に挑んでいて、外界がどうかということよりも自分の側の課題のありどころの発見とその解消の方をなにより優先させなくちゃダメなんだというふうに思えてます。もちろんそればかりじゃなく、現実的な糧を設計開拓することについても余念無くやらなくちゃと、そこは抜かりなく!ビシッ
レンジはちょっと広めですがこのどこを切り出しても自分由来の成分であって、そしてその辺の全部がぜんぶ 100 点になるなんてことは望むべくもないことですが、せめて仲間と心底深く解り合い、共にある将来に前向きになり、望まれる自分像へ一歩ずつ歩を進めるそういうバランスだけは身につけたいなと想います。
人生が難しく、社会が難しく、結婚生活が難しく、仕事が難しく、人間関係が難しく、また大勢の人に理解され、受け入れられ、そうして生きていくことに難しさを覚えるのなら、それは自分自身が思い描く世界があまりに難しすぎることの鏡写しだってことなんだろうとなんとなく思えるようになったんです、はい。だからもう気がつかないところでガチガチになってるであろうガードをスッと下げてみたいんです。それにはまず勇気と自信とが必要だし、そのほかにも沢山のものが要るんだけど。
たとえば、シチリアでカメラマンとして生涯を生きてみたい、とか、ね。言い始めちゃったらそれはやっぱり大変なことですよ。人の人生は自由すぎて、たまにその自由について考えて足がすくむ思いがします。(ボクの兄弟はまさにそういう類いの挑戦を選んでいて、そのことが本当に凄いと想うし尊敬していたりしますが、本人にはそういう風には伝えていません。)
あと、この先しばらくは此の手の話題が多くなるかも知れません。その点はホント済ません。