もう既に沈静化の途上にあるのかなと思いつつも今更。Facebook をはじめとする SNS が相当に一般化してそれで得られた果実について考えてみたところ、それはプラットフォーム上で行われているところの人と人とが繋がることや、あるいは突如現れた巨大なグローバル市場で企業がお金儲けをすることなどではなく、個々の企業が自分たちが備えるところのルールを見直す一顧の余地が垣間見えたことだったんじゃないかと振り返ります。生活者や消費者と企業とが解りあえたであるとか、企業、商品、サービスの認知が促進されたとかそういうということでの成果と比較したときに、相対的にという意味合いで。

ここ最近では企業が各種 SNS に公式のアカウントを所有してて、そこでもって情報発信をしている様はもう全くめずらしいものではなくなっています。各企業が SNS のアカウントを構えて市場に向かうようになってからかれこれ 3年くらいは優に経過しているはず。そうやってそれなりの期間が経過して、でも一応アカウントの管理運営を継続しているっていうことですから、それなりに各々が求める成果が得られているんだろうと推測されます。

そういった企業各社のSNSへの向き合い、アカウントの獲得と消費者との対話、それの運営の一連の動きのなかで最も大きな実りであったんじゃなかろうかと振り返るところの物事というのが、冒頭に書いたとおり、実のところ情報公開に関する意思決定権限の有り処と、情報公開についてのリスクに関する考えを持つということだったんじゃないかと勝手に考えを纏めているところであります。

というのも裏側に見え隠れしていた企業ならではの悩みみたいなことに幾つか立ち会わせてもらった経緯から、メディア活用において先駆的な風土のある一部の企業を除いて、結構な数の名の有る企業やブランドや商品サービスが SNS への参画について検討し、興味を抱き、でも相当に腰が重かった、身動きが取れなかった時期というのがあったんじゃなかろうかと、断片的な事例からではありますが想像されるところがあります。ゴタゴタしていた時期というのは、ちょうどWebマーケティング情報誌や広報情報誌などの誌面をハムの係長が賑わしていた頃合いでしょうか。紙面では、ネット市場の最先端ではハムの係長が Facebook 上でゆるく大ハッスルしていて好走してますよといった取り上げられかたをしていました。或いは映画「Facebook」が上映されていたり、Facebook の上場がささやかれはじめたようなころだったのかもしれません。この辺はなにぶんおぼろな記憶ですので整合はないものとご勘弁ください。

ともかく SNS が一般に認知を獲得しつつある頃、SNSについてベンチマークはすれど、話題には上れど、腰だけは重く沈み込んでなかなか上がらない企業の幾つかと面会してました。腰が上がらないその理由というのは色々とあったんですが、覚えている範囲で挙げてゆくと、一つには(もし、万が一、仮に)何か事が起こったときにその対処が難しいこと。一つにはSNSへの従業員参加に関する規程類の整備がまだ追いついていないこと。一つにはブランドや拠点の数が多くて各部へ任せざるを得ず広報部で一意に監督できなさそうということ。一つにはつぶやきやエントリーを書く担当者(なりキャラクター)が居ないということ。一つには規程により社内インフラからのSNS利用(閲覧と投稿と)が制限されていること。などなどでありました。シンプルかつ初歩的なITに関する課題から、人と組織と意思決定の機構に関わるところまで解決すべき課題は様々。いわゆる広告的な取り組みの悩みではなく、むしろ広報スタンスとして問われる事柄が多く根深くあった印象です。企業はどうやって SNS と向き合うかという課題の解決の方が、まず最初に越えなければならない課題であるというような色合いです。この色合いは企業が大きいほど強く現れていたかなと覚えがあります。従業員規模が万名、拠点がグローバルなんかであったりすると当然、広報本部の管理サイドからの悩みは相当に重いものでありそして相当に本質論的な悩みでもあるはずだと当時も今も思います。強いて平易に言うならば、従業員が所属企業の看板を背負ってなおかつ個人として SNS で情報発信してゆけば、情報漏洩やレピュテーションの問題が(ほぼ必ず)起こるということは想像に難くないですから、転ばぬ先の杖を用意したり、いざ転んだときの免責なりクライシスマネジメントの有り様を検討したり、性悪論ベースの線引きの見極めをしなくちゃならない。
これとは対極にあるポジティブな取り組み、広告的であったりブランド的であったり俗に言う公式アカウントとしての通常の有り様についてだって、それなりに根深い課題や悩みはあるわけですが、それはひとつの演出、一つの管理で済ませることができるテーマであり、じつのところそんなにデリケートにしなくてもよい。SNS 以外の通常の広告活動と同様のルールでやっておけば間違いを踏むリスクは特別に高い物じゃないんですから。でもソーシャルの本質に向き合ったならば、本当の大課題は広報領域にあるわけです。次の一歩が踏み出せない、踏み出すには規程整備がまずクリアすべき課題として横たわるという構図。

シンプルに広告宣伝ないしマーケティング的に SNS を捉えたら、そこでは全世界8億人の消費者市場へ参画したい想い、ハムの係長のようにトレンド・トピックになりたい気持ちとで前進できますが、もう一方に厳然とある現行の従業員規程に則っていてはSNSにアカウントを持つことすらままならない大きな壁とで、ギアをニュートラルに入れつつアクセルを踏みまくる空ぶかし状態。それで一応の対応として、情報掲載はせずとも企業公式アカウントだけは取得を済ませるという対処は散見されました。なんか可愛いなそれ、等思いますが大まじめにそういうことを済ませておく企業は多かった。

簡単に纏めると、結局のところ現行ルールだと SNS への参加も運営もできない。でも参加したい。参加していないこの時間が機会ロスなんじゃないかという焦りがある、という状況認識の下、時々刻々焦りの募る事業部側としては、できたら規程ルールを変えてください、あるいは変えなくても暫時なんとかなる体制を用意してくださいと考えるのが人情というものですし、実際に自社の運用ルール転換の遅さに関して愚鈍を嘆く人もありました。が、そりゃまあ今までのルールが硬派を旨とするストックスタイルで仕上げてきてる歴史的背景もあるんですから、ただかだSNS ごときでそんなに急ハンドルは切れません、ハンドルを切るべきかどうかすらも議論の対象になりかねません。誇張して言えば法律を変えるために憲法を変えようと感じられかねないお話なんで。すると大人が無茶を言うもんじゃありませんと、どっしりした人にたしなめられるということも、各所であったろうと思われます。でもまあ駄々をこねたい気持ちも解ります。ぽっとでのSNSが異様に短期間に影響力を備えた(少なくとも見え掛かり上は)、そこでは消費者等とのコミュニケーション機会があって(あると喧伝されて煽られて)、でも我が社は参加できませんというんですから。そりゃあもう、身もだえものです。

長い歴史に裏付けられた企業内のルールは容易には変われないのだけど、案外 SNS やりたいなんてほんのちょっとしたことで、企業内部の意見が二分してみたり、議論が紛糾してみたり、過大な負荷が発生したり、そして結局変われたり変われなかったりしてるのだという事実を考えますと、そういった変化はとても好ましいなと、個人的には思います。変化はいつも謙虚で、苦しくて、真剣な検討の結果は必ず素晴らしいから。

といいつつも正直言うと、業務として関わっている側としては、(担当者とはまた違う側面からではありますが)やきもきさせられることも非常に多かったわけではあります。説得の相手が担当者ではない、ということを聞かされてしまいますからね。でも、いくつかの企業には変わって貰えたのかなと手応えを持っていて、それはとても充実した経験だったと振り返ることが出来ます。沢山のすったもんだがあった末に、最低限度企業の中の常識は変わったんですから。

これにて晴れて顧客企業も SNS に大手を振って、できることなら鳴り物入りで、参加できます。企業公式も、ブランド公式も、従業員個別も、とやれることは沢山。が、しかし。ある日突然に「じゃあどうぞ」となったところでコレ、何をして良いか、どう取り回して良いかよくわからないわけです、企業もブランドも個人も。それはたとえば野球のルールを知ってるのと、野球が出来るのとでは話がまるで違うというのとだいたい一緒。

たとえば参加の目的が広告宣伝なりマーケティングなりなら、普通に考えて殊更 SNS を意識せず消費者への露出を心がけたらよいわけであります。大体の場合、駅貼りポスターや雑誌新聞広告と同様にして、コンテンツを練って、デザインして、ページをオープンしましたという具合で結構。あとは手ぐすね引いて「いいね!」待ち。もう少し気が利いてたら、キャラを置いてみたりするでしょうし、あるいはゲームコンテンツなんかを置くかもしれません。が、ここは SNS。基本姿勢としては「さあご覧じろ」ではあまり意味が居ないわけです。それならSNSじゃなくていいし、SNSじゃないほうがいい。難局を乗り越え、ようやく手にしたSNS活用のパスポートですが、結局 SNS でやってることは SNS じゃなくて良かったんじゃないか、というオチも十分ありそうです。そういうのは本当にダメなプランによるんだけど、そういうことはままある。コメントは受け付けておりません、とかね。

だもんで惜しむらくは、何をして良いか解らない企業担当者のとこへ広告屋さんの人たちが大挙押し寄せ、あのSNSという場所ではゆるいキャラクターでピエロを演じることが人気者になる秘訣なんですといった様な、解きほぐすのが大変ややこしい錯覚を作り上げてしまったことでして。
エーっ!そんなのダサいからヤだよ。
などと言ってしまえたら随分簡潔なんですが、企業の皆さんは素晴らしく勤勉で、聡明で同時に素直だから、左様ですか、と直ちに信じちゃうのかもしれない。別に、普通の企業が普通の顔して普通に興味関心者と会話してれば良いじゃないの、もともとそういうプラットフォームだよね?というようにボクなんかは思うんですが、そういうのはあまりに木訥なんですかね。あるいは、本来よりも面白い自己でありたいと願うセルフ・ブランディングの願望を企業が強く願ってるってことなんですかね。はたまた、素でいるには自信が足りないのかな。個人的イメージとしては、ふだんプレスリリース原稿書いてる広報担当者達が、非プレスのコミュニケーションを本来の言葉で運営してくれたら、それが最もホットなんじゃないかとか空想するんですけどね。似たようにして、カスタマーサポート担当者による積極的サポートも垣間見てみたい所です。

たとえばFacebookなんかはそもそものところで、友達を見つけて久しぶりだねといいあったり、(さほどそうとは思わない記事でも)好意を示すためにいいね!をしたりされたり、にぎやかしを意図して他人のウォールへ書き込みをしたり、あるいは必要に応じてメッセージを送り合ったり、チャットをしたりするそういう場なんであり、それは同時に個人がちょっとでも自分を良く見せようと競い合い個々人のエゴがダイナミックに関わり合って産まれる「社交」の場なんでして、そこに企業が看板を出したとてせいぜい、その企業へ別の製品を売り込みたいセールスマンがつながりを求めてか、あるいはその企業へ就職を考えている学生が自分の売り込みになればと言う願いを込めていいね!してるだけのはなしなんでして、そんなもののためにすら、企業は自身が研鑽を重ねて気づき上げてきた貴重な文化ルールを少しばかり切り崩すというのだから、商魂と呼んで良いものなんだとは思うんですけど。でも得られる物はそういうものだってことで、少なくとも今のところは、良い。

仮にターゲットとおぼしき属性の人がフォローしてくれている、いいね!しているとして、さらに彼らがセールの情報なんかをキャッチアップしてるんだとしても、それは企業や製品をいいね!してるかどうかは実のところ判然とはしなくてせいぜいセール情報に目がないユーザー層がどうやらいるみたいですねということしか浮き彫りに出来ないですし、当該層はたぶん同じ目的で他のメーカーなり小売りのアカウントもフォローしていますよね、という仮説も成り立ちそうです。彼らは Uniqlo をフォローし、無印良品をフォローしながら同時にきっと IDEE や Ikea もフォローしているでしょう。さらには、セールなら買うがセールでないならパスという顧客を集めるために貴重な原資と貴重な文化を消耗したかったのかというと、きっとそういうことではなかったはずです。

などいいつつもそれでもなお、SNS のために企業がシフトしなおすことは素晴らしい事だと思ってます。自らの有り様を変えるのは本当に大変な軋轢を産みますし苦労がありますし、場合によっては人間の異動や、降格などもありますから。ただそこまでして獲得したアクションに価値を伴いたいならば、社長はじめ役職者等意思決定に力有る人々がみずから会社の看板を背負って、広報と広告の表舞台で役を演じるということをしてしまうのが最も良い選択なんじゃないのかい?とは思います。なにも孫さんや三木谷さんと同じように演じる必要はなにもありません。独自の考えや想いをあくまでも自然体で発揮したらいいんです。もしかしたらたったの一言で社員や部員が鼓舞されることもあるだろうし、消費者に親近感や信頼が生まれる場合もあるでしょう。(もちろん、下手を演じたらネガティブな評判も産みますが、それもまた本人の人格。)
たとえ社内部内のスタッフとはいえ、社交を他人任せにするというのはもうそれ自体が、なんんだか回避的ですねぇと言われかねない社会が広がってきてるということについて、忙しいだの苦手だのはもう言い訳にはならないのかもしれません。想像してみれば、敏腕美人広報にフロントをやらせて自分は壁の華になってる社長と、自ら率先してフロントをやる社長と両方がいるとしたら、どっちがより熱い想いを持ってるか、信頼に足るかなんてことは推して測るべし、なはず。

というわけで。その切欠は何であれ、初期の目的が何であれ、決断がどうであれ。直接コミュニケーションができるインフラの調達、できるルールの整備は既に済んでしまったので、あとはその肝心の直接コミュニケーションを「やる」んです。そこでは「やらない」は「やれない」とみなされるのだとおもいますし、「ミス」は「内心」とみなされるんだとおもいます。なんだかこう描いてみるととんでもないことがはじまっちゃいましたね。あーたいへんだー。

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