Mubz snap

自分自身のライフワークについて他の追随を許さないほど強烈なストーリーがあれば、結果的にですが、周囲の人たちはそのストーリーに付き合わざるを得ません。反対にもしも自分の側にこれというストーリーがなければ、そのことが原因で余所の人のつまらないストーリーに付き合ってやらねばならないのだとおもいます。

眠たいことを言っていては、生涯埒があきません。

無論、誰だって他人のストーリーに寄り添うなど御免こうむりたいことだとはおもうんですけど、でも、そこはそこで競争ごとなのですから従うべきは従う、自立すべきは自立する。仕方がないところです。その競争の世界では、これっていうビジョンが無い者は鮮烈なビジョン(と実行力)の持ち主にに傅いて従う以外に、俗に言うところの社会人として活かされる道はありません。残念ではありますがそういうルールなのです。場合によっては鮮烈さはビジョンではなくて、プロセスが鮮烈であったり、キャラクターが鮮烈であったり、口八丁手八丁が鮮烈であったり、資金力や人脈が鮮烈であるだけの人・場合も実在しますし、どちらかというとそちらの方が数としては大多数はだとは思います。それでも、鮮烈さに従って生きるのです。社会人だから。たとえそれが社会の選択の一時的な間違いであったにせよ。それが人の世の常。

さてボクは。
確度の高い計画づくりと実行および実行補助のスペシャリストであるからしてです。他人が立てたと宣うところの計画(それはただの思いつきとも呼べるものな場合多数)なんぞに付き合うなんてことは馬鹿げたことなんであります。エゴイスティックに間違えた方角へ進もうとするその計画に手を貸すなどというのはダサいのであります。
全部ではありませんが大方の計画なんかは、事情、都合、エゴ、柵(シガラミ)を取り繕うための口上であり、それは人の群れから定期的に放り出される排泄物みたいなものなのであるからして従うべきものではなく、人生を賭するものでもなく、忌み避けるべきものなのであります。触れたくもない、嗅ぎたくもないものの一種。

自分のストーリーを持つということは甚だ勇気が必要な賭けであり生きる意義でもありつつそれと同時にして、どうしょうもないクソつまらない事柄から自分の身を守るという面からいっても、この上なく重要なんだと実感しています。もしも人生を無駄に過ごしたくなければ、です。

と、さっきまでいた池袋の飲み屋で背骨か腰かあるいは横隔膜かを痛めた身で、綴っておる次第。これはぎっくり腰なのか?


ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 (Hitotsubashi Business Review Books)