先日人材関係の会社の方と会っていて。ウチは結構泥臭い営業をしているんですよ、といやにハキハキと述べ立てられて、へえさいですか、となるということがありました。興味があったので一歩踏み込んで聞いてみたら、なんのことはない、紹介型の営業スタイルをとっているのだという。その紹介型の手法になにかしらの優位性を見いだして取り組む会社って、ままあると想うのですが、どうだろうか。

過去を振り返ってみると、泥臭いを言いたがる人ってのも、ちょくちょくいるなあと思い出されます。見た感じは多少ベテラン目ですか、いかにも営業然、なんなら二つ三つの転職を経ての中途採用組ですか。年の頃では40歳を境に向こう側になりますね。彼らの口から度々放出される、泥臭い営業をしています。たまに泥臭いことをしなくてはいけない発言。あのーーですね、構わないちゃ構わないんですが、もうですね、脱力します。

一般的に「泥臭い」の言葉の意味は、広義にはこういうことらしいです。

[形][文]どろくさ・し[ク]
1 泥のようなくさみがする。「―・い水」
2 あかぬけていない。やぼったい。「―・い身なり」「―・い演技」s
[派生]どろくささ[名]

語られてる意味は、おそらく2の方なんだと想います。つまり、営業マンは、垢抜けていない、野暮ったい方が、いいんだぞ、そうでなくちゃいけないんだぞ、というわけです。言っている対象が見た目じゃないことも勘案すると、営業マンは、その哲学と思考回路と行動がもしくはそれらを含めた実行方法が、垢抜けていない、野暮ったい方が、よりいいんだぞ、というメッセージになりますね。そう?ホントに?

ボクは本当はそうではないとう結論を既に持ってしまっているのだけど、改めて何故そうなのか?について解釈してみたい。
垢抜けしていなくて、野暮な手法を採用することを、見込み客相手に告白し、仲間にお薦めないし強要するというのは、一体全体どういう了見なのか。また他人に対して影響を出さないまでも、垢抜けしていなくて、野暮ったい手法を選択する自らを指して、さも誇らしげに強調し、泥臭い行いを持続する、あるいはそのモチベーションの拠り所とするというのは、なんたることなのか。を。

いずれかの業務を遂行する上で、そのやり口、手法、スタイルは、概ね絶対にといっていい位に、必ず洗練されてゆくべきですとボクは考えています。それは日々の研鑽と呼んでもいいし、長く続く会社がユニークなスタイルを見いだして、それがまた事業の継続を後押しするような関係とみてもいいと思ってます。過去の取り組み方法を否定するということではなく、彼方後方にそのマインドや、方法というのは安全弁として担保しながらもより先進的で洗練された別の方法で、目的をかなえるようになる、それはまえよりも高効率に目標との距離を詰めるやり方で、前よりもコストのかからないやり方で。泥臭い方法というのが、科学でいえば基礎研究分野に喩えたなら、進歩の前工程として未来永劫必要な取り組みであるし失ってはいけないんだけど、かといって、創業当時の方法を頑固に守ることに執着するようであると未来の広がりは期待できないようにもなるわけです。
いずれにしても肝心は、目的があって、目的に適う範囲の取り組みであるうちはどんな手法でも良いだろうと想います。また目標があって、目標を達する範囲の取り組みであるうちはどんな手法でも良いだろうと想います。兎に角肝心は目的に背かないことと、目標を見失わないことであるわけです。すると泥臭いかどうかのスタイルに関する議論、メッセージの発信はその個体にとっていったいどういう目的で送信され、討議されるのか、この部分が、本質的な争点だろうなと考えられます。

次に、泥臭いスタイルについて。泥臭いの言葉尻について。世の中の成員は、社会や組織の成員は、いろんなヤツがいて宜しいのです。しなやかなプライドもあれば、決して曲がらない矜持もあり、見た目重視もあれば、本質重視もある。異様にルックスにこだわる者も、異様に点数にこだわる者も、異様に意味意義にこだわる者もあるわけで、それそれが色々な可能性を切り開きながら、それでいて調和して1カ所に寄ってたかって居ることが面白いわけです。そこに多様な人材があるということは其れ自体が魅力であり、力であり、未来への可能性の糸口なんだという風にして、組織がある。
そこの場所では、イかしてることも、スかしてることも、スタイリッシュであることも、田舎臭さも、都会的であることも、そんなものは問われるべきテーマではありません。テーマは、調査計画があって、実行があって、成果があって、反省があって、自らの持つ課題が見えて、まだ未搭載のよりより洗練を受け入れるというようなことの継続です。これは成果を最大化するための前提にあるフレームの繰り返しです。
そこの脇で、公のトピックとして唐突に、垢抜けの度合いや野暮の度合いなどの定性的な問題を議論し評価し合う価値は、完全にではないけども、ほとんどありません。Aくんの泥臭さは80点で、Bくんのは60点で、Bくんはもっと泥臭さに向けた頑張りたまえ、とはならないわけです。評点事態ができかねますし、点が高いことと成果が相関することの確かめも困難です。だから泥臭い人柄や泥臭い方法に関する事柄は唱える、誇張する必要が何もありません。

そういうわけなので、泥臭いなどというとても抽象的な言葉、それ自体が意味を成さない言葉を、ビジネスの場で、ビジネスマンであるべき人物から、しょっちゅう耳にするということについて大変な違和感があるわけです。冒頭にあげたようにウチの営業は相当泥臭いですよぉぉ。と言われたところで、泥臭いと呼ばれる哲学、思想、行動の中で何がどのように遂行されてるのか、どのあたりが泥臭いと泥臭くないの線引きなのか、そういうことについて見えてくるものは全く何もありません。ただ意を汲めば、ウチの営業スタイルは難儀な代物ですよ、という具合でしょうか。
そもそも、曖昧模糊の解釈は、チームを成果から遠い方角へ導く危険があります。結果Aに対する因子A’は、思い込みで方策を語ることは、ややもすると経営にとって事業継続にとって大変な危険を呼ぶことになりかねませんから、不透明な言葉のオブラートに慢心せずに、きちんと伝えるべき具体的な内容を明示する必要がありますし、従業員ならいざしらず、経営者、役職者ならばそこの明確化と提示は職務職責に該当する事柄とみて間違いありません。そういう面からとらえると、一介の従業員や何かしらの専門職の方々は泥臭くなくちゃいけないよと言っていてもいいわけですが、偉い人ほど、言っていちゃいけません。が、偉い人ほど言いたがるメッセージなんですかね。

例えば。彼らの言う泥臭いの指し示す事柄が、です。仮に街頭でのローラー作戦の遂行なら当社はローラーをやるスタイルですと言えば解りやすくていいですね。仮に客先へ考えられない頻度で往訪することならば訪問頻度が成果の鍵だと思っていますといえば解りやすいです。仮に丸の内あたりの大きなオフィスビルの一階から最上階までをしらみつぶしすることです、アポ無しの飛び込み営業することというのも解りやすいです。あるいは仮に互いの信頼を深めるのに見込み客と温泉へ行く必要がどうしてもあるならいけばいいし、ちょっとしたキックバックの話が成約に必要ならば可能なやり方でやればいいわけです。あるいは目当の客のオフィスの入り口で毎朝立ちんぼしするならばそうしたらいい。ひたすら平身低頭お願いすることで契約が取れるならそうすればいいです。
どの手法をとっても、あるいはとらなくても、その活動が成果に最も近道であり目的に適っているならば、定めし業務として粛々遂行するよりほかにありません。担当し専従するべき仕事は最初っからそれです。そこには泥臭いかどうかでものを選ぶという選択基準は入り込む余地が元々ありません。

百歩譲ってです。泥臭いの指し示す意味が、個人としての恥を忍んでだとか、個人としてのプライドをへし折って、個人としての知人友人家族親戚を売ってでも、やるべきことをやるというニュアンスで言われているのだとして、です。
どうしても個人の信念や矜持、あるいは個人生活に多大な不利益を産むことが行動を阻害して、結果定める業務をこなすことができないという事態に陥るようになるならば、そのときには個々人へ職務業務への不適をきちんと伝えて、転職を薦める方が個人にとっても組織にとっても結果的に幸せな形です。組織の側を眺めてみても、そういう事態が発生するというのは、プロセスの先頭も先頭なにより最初の採用選考の時点で失敗をしてしまっているわけです。泥臭いことができないスタッフが悪者という構図は特に見当たりません。
根性も情熱も姿勢もライフスタイルも人生の価値観も、本人の意向以外の動機によって、泥臭い方角へと改変されるべきものではありません。そういった人格に抵触する内容の指導で個々人へ追い込みをかけると、他人の心と身体を破壊することになるというのは容易に予測できますし、なにより場合によって違法です。結局、最終ラインで問われるべきことは、ただただ成果と適性だけです。

であるにもかかわらず、泥臭いという持って回ったような呼び名で業務に関する思想を語りるのは何故なのか。以降はただの個人的見解になってしまいますが、自分こそは何か違った次元の哲学で行動をしている差別化のニュアンスを醸すのに便利じゃありませんか。あわよくば営業の本質を知ってる自己主張の具材に使ていやしませんか。下位の者を支配するための恫喝の言葉として使いやすい言葉ではありませんか。本音として上位者へ自分の売り込みを図るのに好材料ではありませんか。また、誰もが明確だと思える実行指揮、そのための奥深い思考と言語化を回避するのにもってこいじゃないですか。創業当初のやり方を未来へブリッジしている様で良い気分になれる言葉じゃありませんか。泥臭いを口にするときの人の心情はそういうものじゃないかと予想します。

また、上に挙げたそれぞれのコンディションはどれも、全く成果とは程遠い、業務外の取り組みです。そういう職務業務外の取り組みに熱心であると、時間を注ぎ勤しんでいるというのは、実はその行為自体が、言葉自体が、甚だ外れたパフォーマンスとです。まあ社長業をやっていて、今度出版をしますだとか、今度社是を描きますだとか、そういうシーンで泥臭いことへ取り組む精神について刻むことは大いに結構なことと想います。あるいは、過去の偉大な経営者について触れられた啓発本を読み進める中で、泥臭いことが大切、と描いてあるのを心に確り刻むことも構いません。が、それが職務業務だと想ってもらうと、なかなか困ったことです。戦場へ出る兵士に向けて、泥臭く戦ってこい、という言葉はおそらく何一つ意味を持ちません。
むしろこういう問いが必要になるのかなと想っています。最前線で戦う兵士であるスタッフたちが当然泥臭いことに向き合い、臨まれる成果の為に自らの頭で判断し率先して泥臭い行為を採る、と言う風になるための指導を、あなたは泥臭くやってますか?と。泥臭い指導とは何だったか?と。
というのも、ボクの身の回りの人たちで泥臭いを言う人というのは十中八九、現場との緊密なリレーションを取りません。仕事で戸惑いを持つ若いスタッフ達の悩みや苦しみを引き出そうとはしません。自ら OJT を施しません。セールスのスクリプトを自らの手で書きません。シミュレーションにも付き合いません。販売管理も他人任せにします。部門予算をまともに取ることができません。個別顧客に特化した調査をする様子もありませんし、顧客に最適化した企画提案書を描くこともありませんし、かといってその場でもの凄く説得力のあるトークを展開するでもありません。むしろ毎日夜遅くまでトレーニングをしている若いスタッフよりも客先でのトークが粗末である場合も多いですし、無言になってしまったり、口を開けばひたすらお願いします予算足りないんですという泣き落としに入る惨めを演じるばかりというのも決して少なくありません。にもかかわらず彼らはその自らの有様を客観視出来てない故、それを情熱や泥臭さと誇らしく呼び、讃えるよう周囲に促します。これよりも悪い場合には、泣き落とし販売スタイルを讃えない部下を見下し、偶発的な部下の準備不足をなじり、自分の仕事がいつまでも片付かないことがあたかも部下のせいであるかのように恨みを抱き、部の定例会議にすら顔を出さなくなりますし、にわかには信じられないかもしれませんが、この期末にどの部下を切るかという皮算用ばかりが頭の中を支配していたりもします。そのくせ部下を自らの案件へ巻き込み、自らがやるべき作業を割りあて、本来その業務でないにかかわらずアシスタントとして扱いし、大いに頼ったりする様子もうかがわせもします。そういった類いの上長が、泥臭い取り組みだとか情熱だとかということをしきりに言いそやします。くれぐれも個人的経験から感じ取られる傾向値としてです。
反対の傾向値もあります。同じ職場とは言え端で見ているとはいえ、なんだか解らない理屈で、考えられない数の人と繋がり、その繋がりの向こうに新たな繋がりを作り、あたかも一人SNSのようにして6回ノックしたら全人類と友達なのかと、しかもその繋がりのどれもが厚い信頼を寄せてくれているような、若いかベテランかを問わず決して真似の出来ない素晴らしい営業マンというのが居て、彼らは同僚や後輩に対して非常に寛容で、指導や手ほどきの時間を惜しまず、またそれと解らないような形での送客を惜しまず、現場のリーダーとして、最前線のエースプレーヤーとして活動することを好み、当然部署最大の売上げを出しながら、片方では管理職への着任を断るケースというのが度々あります。そうした彼らはいつもなにやら晴れやかな表情をしているし、口上も軽妙だし、とてもよく慕われますし、個別客の課題をそれぞれ良く理解し、本当の解決策をいつも探し廻っています。なにより彼らの口から泥臭いことの主張なり強要を聞いたことは、まだ一度もありません。これもまた個人的経験からですが。
決して慇懃すぎず、軽快なフットワークで、周回数多く、かといって寄り道も多く、失注を恥じず、いつも晴れやかな彼らが、泥臭いことをしていないかといえば、しているのだろうと想います。まあ泥臭いが成果に繋がるのであれば、だれより泥臭いに違いない訳ですから。しかしながら彼らが泥臭いを推奨しないのは何故かというと、おそらくですが、泥臭い取り組みを自分自身がしている自覚が無いということなんだろうと言えそうです。
だから最初から、泥臭いという言葉が何の行為を指し示しているか、また泥臭いことと成果の相関関係は真実なのか、よくよく練って取り扱わないと、チームを組織を事業部門の収益を、とんでも無い方角へ導くことになってしまいますし、もっともスマートな解決は定義の曖昧な泥臭いという言葉を使わないようにするという甚だ簡単な進歩を遂げるということです。

生き物の世界をおしなべてみたら、集団の構成員には多様性はあったほうがいいはずです。海を嫌う通常のイグアナがいていいし、何故か取れ高の低いはずの海へダイブするイグアナがいてもいいわけです。ときたまなにかの環境変化で、奇異な行動パターンを採る方が、種の保存の最大功績者になったりする場合というのもあるということです。
多種多様な人間がいて、それぞれの考えで、様々の取り組みをする。その中で成果達成へ確度の高い者が現れたらそれはアタリくじを引いたようなものですし、数多くの確度の低い者があるのは通常の自然なことです。そこで確度の高い者の背中を注意深く見つめてその手法を盗むのも、共有するのも、一般化するのもいいです。だからとある個体が信じ込みによって泥臭いトライアルをやるのは大変結構なことですし、それはそれで一定期間暖かく見守ってやれば済むことです。
が、往々これがいつしか当の本人の中での解釈が歪む時を迎えます。当初の「成果のためにやっている」から「成果のためには苦労をしなくてはならない」になり「人一倍苦労をしているのに一向報われない」になり「みんなはもっとずっと苦労するべきだ、オレだけじゃ無くみんなが。泥臭く。」と拗れてゆくのはある程度目に見えているわけです。
あるいは、それが通常の年功序列制度による自然な流れであるにも関わらず、あるいは内部的な周到なセルフブランディングの賜物であるにも関わらず「振りかえればオレは泥臭くやってきた。だからこそ今の当然のポジションを得ているのだ」から「成果を出すやつというのは、泥臭いやつだ」「その証拠はオレであり、当社の現在の繁栄だ。」という具合に拗れる場合もありそうです。

ですから、平たく言えば人一倍旺盛な承認欲求であったり、人一倍肥大化した支配的思想なり同調主義のようなものが人の口を借りて、泥臭いを言わせしめる根源にあると言う風に理解しておきたいところです。そう理解しておかないと、なんだかとてもじゃないけど付き合いきれないような風土文化を喚び、結果として、実のところ当の本人すらをも含めて誰一人として付き合いきれないような泥臭い神話が誕生してしまいそうです。

無論、未定義の泥臭いを受け入れ、誰よりも泥臭いことを目指せる、そういうことを自分の生き甲斐やり甲斐に転換することができる、特別強靱な心理的骨格かもしくは一風変わった心理的処理機構を備えた人物もあろうとは想います。これはこれで貴重な人材です。が、泥臭い偏差値グラフの中央付近から左側に位置する大多数の一般の人は、どこかの水際でストレスを覚え、辟易し、反目し自ら離脱するか、あるいは離脱を余儀なくされるパターンに墜ちると見立てて挑むのが自然です。
もしかすると創業初期においては、そういう文化的統一が有効な手段である場合というのは多分にありそうではありますが、それは規模の拡大につれて、伝説として語られる程度に存在を薄めてゆけばいいわけです。あまりに過去の体験が強い拘束力を持つ文化に仕立てられると、かえってそのこと自体が、プラネット・オブ・ジ・エープよろしく禁断の地を産むことになります。

あるべき姿へのこだわりのなれの果てが、周囲に対して、成果ではなく泥臭さを演じる演技を強要するようになるわけです。どこか、成果そのもので慰撫しきれない自分をそれでもなんとか慰めたくて、組織内部の評判で慰撫するようになのかもしれません。これに陥ってしまうと後は、若く従順で学習意欲旺盛なスタッフたちがその背中をみて学び、この上なく素直に対内部の取り組みを上手に真似るようになります。すると当然、互いの足の引っ張り合いか自己弁護が、いかに自分の取り組みが泥臭いものであるかの弁論大会が、組織内に蔓延します。現実に30歳手前の若さでこれを上手に真似るスタッフと関わりあったことがありますが、これは指導に大変な苦労を要します。苦労は成果と直結しているべきであり、苦労を語る苦労は成果を生まないというシンプルな事実を悟らせることは、結局できませんでした。

ですから、泥臭さを大事に想う思想の蔓延は、組織なりチームのオペレーションとしては大変な邪魔なものになります。し、それだけじゃなく、別途、年次、月次、週次、日次で情報収集し、調査分析し、社運をかけてクリーンな頭で戦略を練ってアウトプットしている担当者の業務に対する冒涜にすらなる場合もなります。だから、とても気を遣って、この上なく丁寧に、こういうことを言わざるを得ません。

今すぐにどいてください、邪魔です。

ポストを目指すセルフブランディングにせよ、子飼いの後輩の育成にせよ。もしもそういった内部をターゲットにした事柄を検討している時間が許されているなら、そこはひとつ目の前の的を睨みつけて、脇から同じ的を狙っている敵の動静をよく抑えて、軍場の芝目を撫でて確かめて、洗練された手法を開発し、これを実行して、戦に勝ってその正しさを証明することへ尽力することをお願いしたい。その開発された手法が泥臭いと命名されるならそれはそれで結構。命名についての検討会は諸々終わった後でやってくださいな、となります。
実際、的を射ることができる手法を発明なり発見なり模倣なり先鋭化なりすることの優先度は今まさにある喫緊のテーマであり、他者への恨み節や隣人同士の足の引き合いよりも重要度も緊急度も高いです。それに結果として周囲への影響も大きな仕事です。これ如何によって、軍場で命を落とす兵士の数も大幅に減らすことができますし、その向こうにある家族たちの命も少しは長らえようというものです。

もしも今現在よりもほんの半歩だけ洗練された、的を射る性能に優れた手法がどうしても思いつかない。だからこそ、他に選び手が許されず、結果としてなにか必要材料が多くかかり、競争相手の別の会社よりも準備に手間と時間を要する、故に他のライバルたちが誰もやりたがらない、そして材料の一部として戦闘に立つ個々人の矜持を踏みつけにせざるを得ない、イコール泥臭い手法を選ぶということであれば、それは泥臭いのではなくてむしろ業界内でか社内でかあるいはあなたの配下に限ってか、今現在最も洗練された最先端の手法と呼ぶべきものです。だって、それ以外には手がないことを認めてしまっているのですから。
成果に対して最大効率を発揮できる手法としての通常の業務に対し、恨みを述べ立てたところで何も生まれません。それではただなにかしら胸にある架空の、空想の、ファンタジーの中の、あらゆる全てが理想的な状態を想い、その理想の状態と現実のと乖離に個人が勝手に失望し嘆いているというのに他なりません。架空と比較して苦労を語る程、虚しい行動もまたなかなかありません。

もしも泥臭いという呼び名に妥当性があるとして、その呼び名が相応しい職業は何なのか。これは仮にですが、収録企業4,000社の四季報片手にしらみつぶしのテレマーケティングを自前でやるという手法が泥臭いに該当するのであればですよ。
じゃあ、営業より下流の工程に就いて仕事をしている人たち、ITシステム開発の、プログラム開発の、ソースコードの一行づつ、一文字づつを手で打ち続けて 10 万行にも及ぶ地道な作業を引き受け実行する平生を送るプログラマや QA 担当たちの仕事のことは何と呼べば良いのか。また400ページもの原稿の一言一句の正しさを求められる DTP オペレーターたちや校正者や写植屋の、また全くロジックとセンスと目的をぶらさない精神力とを備えない顧客のリクエストに応え続けスクラップアンドビルドを日々繰り返すデザイナーの、また日に数十件言われない罵声までをも引き受けるカスタマーサポートの、医療従事者の、介護士や保育士の、店頭販売員たちの仕事のことはなんと呼べばいいんだい?被災地復興にあたる自衛隊員は?貧困国の現地支援をしているボランティア員は?一週間も陸に戻らない漁業従事者は?自然にされるがままの農家は?ということです。
こういった仕事の実情と比較したら、日に 20 件ほどまだ見ぬ見込み客へコールしてみることや、陥落間近の見込み客と夜な夜な酒を煽りに行くことが正規の仕事であるという層の業務内容はなんとハイソなことかと想われます。無論、そこにはそこの苦労があることは重々承知してます。それにほとほと疲れるときも、どうにもノルマなんか達しない気がして投げ出したい気分になるときもあります。が、それでもなお、先に挙げたどれよりも地を這う困難を伴う泥臭いものという表現に値するようには到底思えないわけです。それはボクが知らない外交員の秘密の仕事があるからなのかもしれませんが。

色々な業態がありますから一概ではありませんが、大まかに言って、新規開拓の外交員の担当業務の重い部分は前半戦か小さければ第一クオーターの範囲の中にあります。最初のアタックリストから以南、顧客側の検収までの全行程で眺めたときには、顧客という単位は実のところ最も大雑把な単位です。そこから下流の工程で生じるものは、案件1件、納品物1点、ページ1ページ、特集1記事、行1行、文字1文字、色一色、最悪1ドットですか。全てを完遂するには、そういう事細かな世界が待ち受けています。メートルがセンチメートルに、センチメートルがミリメートルに、ミリメートルがミクロンにという様相です。それはもう、泥濃度マックスの泥水を来る日も来る日も啜っているとしか表現の仕方が見当たりません。

自身がどちらかというと頭を使うことが苦手で、この苦手を理由にして思考する業務を避けることが許されてしまい、そのため野暮で垢抜けていない手法の強い肯定が存在意義なり自己証明なり承認欲求の鍵となり、この鍵が一般にも当てはまることが検証済みであるかのように喧伝され、そういった一連の結果として、ほとんど全く計画的ではなく、其の日其の日の朝刊次第の、気力体力勝負の、あたって砕けることの潔さの側面を強調して、そうやって偶然に任せたフーテンな取り組みによる日銭を成果とする。この有様の一連に慇懃な呼び名をつけて、自分にとって最も緩くチューニングされた環境の継続を確保するというのでは、個別プロセスもプロセスの一般化も、弱い者との共栄も、何一つ実現しそうに見えませんし、単純に労務管理的にいって甚だ不整合です。

これを読む人間に、泥臭いを好む人物は殆ど居ないだろうとは想いますが、もしもいるのならどうかこの機会に、苦手であることは重々承知してますがどうか前向きに、プロセスの洗練と、成果の効率化と、労働時間の短縮とひいては経費縮減、自分以外の個性を認める寛容を宜しくお願いしたいところです。
また純粋に、市場を知り、個々ニーズを知り、敵を洞察し、事前のシミュレーションし、イメトレを怠らず、練習を惜しまず、コーチを惜しまず、もちろん得意の体当たりもして、手法別の結果を集計し、反省し、改善し、無骨な体当たり以外の汎用性ある、願わくば体力がない者でも真似ができて成果を生める、そういった手法を編み出すことが出来ずにいる状況に、終止符をば。

事がなにであるにつけですが、猿は高いところへ上りたがるらしいですし、水は低いところへ流れたがるらしいです。ですから、なにか発言をしたり他者へ影響を及ぼすようなことをしたりする際には、それが利己的すぎやしないか、不必要に利他的すぎやしないか、狭い範囲だけに捕らわれていないか、他の正義はないか、よくよく考えて、厳しく戒めて行うよう努めなくてはならないと、身につまされます。


利他的な遺伝子 ヒトにモラルはあるか (筑摩選書)