勿論最初から、知的で、ユーモアに富み、コミュニケーションの相性よく、頼もしくも、誇らしくもあるととっても嬉しいのですが、そういう出会いのケースは人生で希です。

よくよく付き合ってみると、案外たちの悪い部分があるなだとか、徐々にアクを出してきたなだとか、様子を見つつ主張のボリューム強めてきたなとか、後になってはじめて気がついて面倒な気分に陥ることが度々あります。その本人からしたら個人としての経済合意性の追求みたいな、居心地のよさの追求みたいなものといえばいいですかね。関係性の中で、これに気がつく段に至るともはや、そのなんとなく面倒な部分を含みにして、それでなおその個体本体を懐に置いて愛でることができるか否かの判定結果いかんで、その後の付き合いが継続するかどうかも決まるんだなと、今更ですが、思い至ります。これには男女も上下も関係なく。

親しき仲にもで、本当ならそのどうしようもないアクみたいな部分を当人がきちんと自覚して制御して、卒なく付き合いに挑んで欲しい。それが本音ではありますが、かといって人の心、とかく緩もうとする反時計回りの人の心の回転というのはどうにも制止のしようがなく、残念なことではありますが、付き合いが長くなるほど、付き合いの深さを増すほどに自らの油断や甘えをベッチョリと塗りつけつつも同時に許しを得ようと働くわけです。これはもうホントに、仕方がない。

だから、血が繋がってても繋がって無くても関係なく、人物そのものを懐に置いて生きてく覚悟如何でその後も一緒の時間を過ごせるかどうかが決まりますし、それを俗に「器」とか呼ぶんだろうと思います。方や、器の側を眺めていると、希にアンタどんだけ懐広いのよ?と思うような、許す量のでっかい人物というのもまた居るわけです。どんなのでも懐に置いちゃう。もはや生まれながらの公器のような。そういう人物を知るにつけ自分のチッポケが身に沁みたりもまたします。

誰かと一緒に時間を過ごす、或いは協働して何かに挑むということは、表面上は目的や利益のシェアが主題として語られますが、実はそれだけじゃなくて見えない水面下のところで居心地のシェアをしているという事実を白日にさらしたいところです。放っておくと見えづらいそっちの側面を、なんか上手いこと尺度化して可視化しなくちゃいけないなあとか思います。
まあ完全な不均衡是正を目指すつもりは更々ありませんが、一定の自覚を促す機会くらいは必要なんだろうと考えるわけです。


組織デザイン (日経文庫)