人はそれとはしらず、考えてることやアイデアを伝え合ったり、隠したりしてます。同じ時間を過ごしてたり、物理的にはともかく心はじつはそうでもなかったりもします。持ち上げあったり、蹴落としあったり、愉しんでる素振りをしたり、その素振りで愉しませようとしたりもしてます。そういった結果として本人の全くうかがい知らない別の場所で、好かれたり、嫌われたり、罵られたりもします。直接には無視されたりしかしませんけども。
ときたま自分は何を目的として人と向き合って会話を重ねているのだろうかと、まったく見失ってしまうような時があります。まあ全ての対話に目的が備わっている必要もまたないんだけど。だけどときには、あれ?なんでこんなに必死なって説明しようとしてるんだ?判ってもらおうとしてるんだ?となるときというのはありますし、反対に、アレ?この人の話を違ってるって感じてるのに何を無理してそっち側の世界観に立脚して理解しようと頑張っちゃってるんだ?というのもまたあります。そんなことと特にどういうときにそう感じるかというと事実を土台にして同じ土台から一緒になって展望したいとか願って会話を頑張ったとき。相手を解りたい、自分を判られたい、のその一歩先にある一緒に考えてみませんか段階に早々入りたいようなとき。そういうときほど、その目的とは全然違った結論が導かれることが多いように感じられます。
そもそも僕の見てる真実が先方にとって事実でない、むしろレアケースであったり、ともすると遭遇ゼロ回であるという場合には、そりゃ住んでる世界も見てる物も違うって事で合点がいきますし土台の築きようがない。平行線はやむを得ないかもしれないなと想えるので、ほとんど何の失意も熱意もそこにはないんですけど。なかなか失意の度が大きいケースはむしろ、あまり本当のことを言ってくれるな。そういうの聞きたくない。辛い、嫌い。と感じさせてしまってる場合の方だったなと振り返ります。
同等の立場で、視点で、外界に厳とある事柄を上手くいかせるために、まず今の現実を解析して理解する。そこに採るべき変化なり厳しさのアイデアを出し合う、実行し合う。だけ。でも先方にとっては、なにかこう難癖を言わたような気分がしてしまうのかも知れない。ときとして?事実の直視は人を傷つけます的な?例の感じ?なのかしらんとか想いはしますが、とはいえ、こうも想うのです。そんじゃ子供扱いをしろとでも?と。20も30も40も越えた立派な大人たちを。
などとね。切っては捨て切っては捨てして生きてはきてしまっていますが、でもそんなことしてると正直いって、都度つどやっぱり心にささくれはできてしまいます。騒ぐほどでも他人にぼやくほどでもないほんのちょっとした引っかかりが。意外と先1年くらいの長期間。
おもむろに剥がれかけの甘皮を強くつまんで、ギッと剥いて忘れてしまいたい。そういう小さな引っかかりです。なんでそんな思いしなくちゃならないんだろうか。
そういうわけで。対話に関する自分の姿勢ははたして上等なのか下等なのか。たびたび自分でもよくわからなくなることがある。あるのだけどもうそれは迷っていてもしょうがないし、伝達する内容や表現に、いかにも先方が喜びそうな甘味料なり着色料を混ぜ込んでそれでもって「いままで通りの」関係を持続する、そういった手の対話を続けているほどにはヒマではなくなってきているだけなのかもしれません。
ともかく一旦、これでいーのだ!て風に腹を据える。というか厳密に言えば甘味香料入りの自分に見切りをつけることしか選択が残されてないのかも知れないですナ。これ。
で、話は今現在のとある局面。あの人へ事実とその捉え方と考え方を共有して、またそれと同時に先方の事実に耳を傾けて、それでもって化学反応的に互いに世界の理解を変質して、それでもってこの難局に対峙するそのやり方なり武器なりを共同開発しなくちゃねというトライアルの直中にあります。
彼と僕とで、お互いに殆ど奇跡みたいなバランスで今を繋がりあっていて、もちろんお互いにはっきりそれと口に出すことはしないけれどでもお互いに100%の確信をもってそれとわかる腹の探り合いを展開中。この探り合いの中、決して意地悪じゃなく真心から、相手があまり聞きたくないかもしらんなと予測のたつ事実なり僕の理解を割かし沢山の数、そして僕にしては割に強く、僕の側の事実として言葉に代えて伝えなくちゃいけないと想ってこれを実行してる。
ただ、コンディションとしては悪条件。そもそも僕は会話が下手クソだといっていい。なのでこの試みも先方からみたらなんとも野暮ったい取り組みに相違ない。少なくとも会話スキルの側面ではレベルは高くはないと判断されるはずです。そのうえさらに。そもそも彼のほうが目上であり、実績者であり、社会的地位もある。無論頭も口も僕より達者。自信にもあふれているしそれなりの説得力もある。そして最悪なことに過去において甚だ世話になったその大きな恩義も、僕の側が一方的にではあるけど、感じてる。もう最初からこっちの真実だの考えを挟み込む余地はないじゃないのよっていう大局で負けの見えたコンディションといっていい。良識のある大人からしたら、オマエさぁそこは泣いとけよ、という局面に違いないわけですが、そうしてブレる結果を受け入れるほどの余裕はないのだから仕方ない。無い袖は振れぬ。
本当、迎合して曲げることはとっても簡単なことです。そして人間の強弱と当座の予定だけを考えて調和を採るなら曲げた方がより親和性を演出できて、互いにラクチンであることも判りきっています。さらには、姿勢としてこうべを垂れるかどうかそんなものに人間の矜持はないのです。もひとつ言えば若輩者が謙虚な姿勢で上位者の話に終わりまで静かに耳を傾けて、自分が間違っていやしないか内省をすることは、むしろ僕にとっては自然な行為と想えるしそこに無理はないのです。
だけど今回は手前から奥へ向けて徐々に人間関係なり信頼を積み上げるのじゃなく、反対に奥から手前側の順に逆算する格好を優先したくてどうせ奥の側で自分らしいパフォーマンスをしたいのならば今から曲げるのやーめよ!と想ってます。ともするとそのハード目な対話姿勢のせいで今の会話も将来の人間関係も無に帰すというネガティブなリスクは孕んじゃあおりますが。だけど曲げずに進めれた場合のポジティブなリスクと天秤にかけたら、そうした方がより良いと思えます。ヤケを言えば、わかり合えない人との平行線の対話はむしろ無に帰ってもらうほうが互いの人生の能率もまたあがろう、ということで。
そりゃ面と向かって対話をしてれば頭脳の rpm がやたら高い人と、一体全体どんだけのバッファ持ってるのか知らないけど毎秒続々と論の立つ人相手にはとうてい敵いやしないけど、そういうことの関係ない、回転速度やテンポの善し悪しの関係ないメディアなんていくらでもあるんだから其れを使えばなんとかなったりします。
愚直と時間しか道具立てはないのですが、何もないよりまあマシってことです。2013年の俺はなかなか立派に生きてると思う。から誰か褒めたらいいのに。お寿司をおごればいいのに。