みんなそうなんだとおもうんだけど、Kindle for iOS を実稼働し始めてからこっち、本を買う、読む行為に相当な気軽さがあります。さらっとAmazonを眺めて、気になったのを1-clickで買うという行動導線がですね、楽過ぎます。紙の本よりも割安であろうという思い込みが手伝ってるところも多分にあるし、読み終えた後の収納場所問題で躊躇しなくてよくなったことも大いに関係しています。

で、冨山和彦 著「結果を出すリーダーはみな非情である」(kindle版)を読みました。

ここ最近読んだ中では相当に骨太な内容でした。書かれている中身に関してはだいたい納得です。まあ改めてちょっとだけ世はきびしいねえとは思ったりもしますが、それはそういう時代だから仕方がないことです。というかそもそも大きく括ればそういうことそのものについて書かれています。厳しい時代、厳しい立場を自覚したら、意思決定に先立って、注目するものや測るものや行動は自ずと違ってくるでしょ的な。

個人的にはちょうど分水嶺、右に進めば濁流、左に進めば激流の狭間に立ちつくしつつ、本書のテーマとクロスオーバーな課題の検討にあたっていたので、時間軸的にぴったしマッチ。改めて覚悟の必要量について意識的になれました。わかっちゃいたことではあるものの、とりあえず読んどいて、セーフって感じを得ました。

余談ですが、Kindle for iOS 結構よいです。当たり前だけど、蛍光マーカーを持ってなくても気になったところにハイライトつけられます。後で見返すのに便利。消せますしね。

以下、備忘かねがね引用です。

No306

むしろ現場で力を発揮しているリーダーは、共同体内に不協和音を生じさせるような場面では意思決定ができなくなってしまうおそれがある。「ここでおれが決断すると、この人たちはきっとがっかりするだろうな」とか「つらい思いをするのだろうな」ということが気になってしまう人は、シビアな状況では思考停止しがちなのだ。チームを全滅の危機にさらすことになる。

No320

日本は現場力が優れているがゆえに、トップの意思決定力がなくてもこれまでなんとかなってきた。だがそれは、みんながゴールを共有できた右肩上がりの時代の話で、本当はすでに20年ほど前からシビアな決断ができる、戦略的な意思決定能力を持ち合わせたリーダーが求められる時代になっている。
現場力への過剰な依存が、今の停滞を招いているとも言えるだろう。

No325

現場で何が起こっているか、その1次情報を知ることは会社経営において非常に大切だが、会社のフロントラインに立つ人たちは権力構造の外に置かれているから、基本的にはみんな野党的立場をとる。

No353

企業を取り巻く経営環境が厳しい時代だけに、若い人もそのぐらいの気構えが必要だ。自分がいつか経営者になるつもりで20代を過ごした人と、野党気分丸出しで愚痴ばかり言っていた人とでは、30歳になるころにはどれだけ力の差が現れることか。

No379

トップマネジメントがどれほどのストレスを味わっているかは、実際にその立場になった者でなければわからない。そして、会社が修羅場の状況に置かれると、そのストレスは何倍にもなって襲いかかってくる。
そのストレスに負けて論理的な思考力を失ってしまう人、正常な判断ができなくなってしまう経営者は予想以上に多い。

No419

企業再建で乗り込んできた社長が、真っ先にリストラ対象にするのはその手の管理職だ。だが、その手の輩に限って、何も知らない経営者が乗り込んできたら、ここぞとばかりうまく立ち回ろうとする。
私も産業再生機構では、支援対象企業で自称「キーパーソン」という中間管理職を何人も見てきたが、そのほとんどは、いてもいなくても問題ない人ばかりだった。それを見分ける一番よい方法は何かというと、「あの人は、本当にキーパーソンなのか」と、部下に聞いてみることだ。たいていの場合、「別にそうは思いません」という答えが返ってくる。

No434

日本の企業社会は失敗に対して非常に不寛容で、新規事業を立ち上げて失敗したりすると、二度と立ち上がれなくなったりする。仮に成功しても、片道切符で転籍させられて、本流の出世コースから外れてしまうこともある。
そんな組織風土の中で、新たなことにチャレンジする人物が生まれてくるだろうか。

No595

今はゆったりとした川の流れに身を任せているつもりでも、ある日突然、目の前に滝が現れて日本は真っ逆さまに落ちていくしかない。若い人たちが今のうちに日本を変えないと、やがて自分たちが悲惨な老後を迎えることになる。

No614

右肩下がりを受け入れ、衰退を成熟とすり替えている限り、絶対に希望が持てる社会は戻ってこない。

No626

しかし、よき課長、よき部長どまりの中途半端な野心でそれなりにやってきた連中は悲惨である。家族と家のローンを抱え、学歴や職歴のプライドをずたずたにされながら、次の仕事を探す羽目になる。

No665

だから、やたらと入社試験を受けまくって、少しでも安定していそうな会社、わずかでも給料の高い会社の内定を取りにいく。そういう行動様式になる。
自分の能力一本で自分の道を切り開いていきたい、という意志や自信がない人にとって、それはある意味で合理的な行動だ。難関大学の卒業証書というなんとか手に入れた通行手形で一番おいしそうな選択をするとしたら、まだ年功序列や終身雇用的な「カイシャ」制度がなんとか維持できていて、かつ給料が高いところということになる。

No671

だからこそ、今の段階で、かなりコペルニクス的に発想を転換して、トップリーダーを目指し、真のミドルリーダーとして自分を本気で磨くか、管理職など目指さずに現場スキルの職人芸で勝負するのか、はっきりさせたほうがいいように思う。

No755

とにかく最悪なのは、アメリカ型の株主主権主義、市場原理主義やグローバリズムはけしからんのだとイデオロギーのせいにしたり、アメリカの陰謀だの無策の日本政府がけしからんだのと他責の論理に逃げたりして、思考停止することだ。実際、50代、60代の多くがこの手の思考停止に陥りつつある。いまだに外部取締役制度は日本になじまないなどと言っている、どこかの財界のお偉いさんなどはその代表だ。
はっきり言って、終わっている人たちを相手にしても仕方がない。

No766

中間層の縮小に歯止めがかかるとしたら、国内の組立工場で働く人たちの賃金水準が、新興国と同等レベルになったときだろう。国内の賃金水準は下がり、新興国では上がる。均衡点に達したときに、新興国への生産移転が止まる。

No796

日本の人材教育はこれまで企業が担ってきたが、右肩上がりの経済が終わり、終身雇用が崩れた今、企業がその負担を負い続けるのは無理である。優秀な人材は公共財なのだから、その教育は本来、公共予算で行うべきだ。

No805

自分の企業で育てた若者が、社会のどこかで活躍してくれればそれでよいではないか。ひょっとするとその若者は、もっと成長して自分のところに戻ってくるかもしれない。最悪、競争相手に行ったとしても、強い競争相手と競ってこそ、企業は世界の中でより強くなり、イノベーティブになっていく。若手人材が流出する場合、彼ら彼女らの成長の場、自己実現の場としての自らの器の小ささをこそ反省すべきである。
だいたいこんなことを言う輩がいるような会社は、「官僚的」で「ムラ型」を絵に描いたようなクソサラリーマン会社だ。

No853

「経済成長の時代が終わった。少子高齢化で国としても老いていく。だからみんな一緒に静かに山を下りようじゃないか」。そういう議論は勘弁してもらいたい。山を下りたければ自己責任で下りてくれ。少なくても将来ある若者たちを巻き込むのはやめてもらいたい、と思うのである。だから、ブータンのGNHの話も、経済成長の追求を頭から否定する議論に使われることには、非常に違和感がある。

No864

企業のリーダーシップにおいても、組織構成員それぞれの多様性を踏まえた経営能力が必要になる。今や日本人の従業員の中にも、世代、性別の違いはもちろん、実に多様な価値観を持つ人々が存在する。それはひとりひとりの人生の中でも次第に変わっていくものだ。結婚、子供の誕生、家族の病気、親の老いと介護など、ライフステージの変化の中で大事なことの優先順位は変化する。

No910

リーダーが判断を迫られる場面で、仮に持っている情報が同じならば、非論理的判断と論理的判断を比べれば、論理的判断が勝確率が圧倒的に高いと断言できる。

No964

論理的に考えてこのままだと会社は生き残れないという後のない状況では、古くからの事業を切り捨てる、虎の子の資産を売却する、あるいは従業員に早期退職してもらう、といった辛い判断をしなくてはならない。その判断のもと、実行に移そうとすると、さらに各方面から大きな反発を受ける。それも同じ職場で働く仲間や、かつて同じ釜のメシを食った先輩たちからの反発が一番強い。

No983

経済の世界はリアルな世界である。人とカネをめぐる生々しいせめぎ合いである。それを、人間を幸福にするツールとして機能させるには、リーダーがリアリズムと合理主義に徹することが、絶対と言っていい必要条件である。

No989

多角化企業が多い電機業界などを中心に、10年以上も叫ばれてきた「選択と集中」という言葉がある。ただし私は、日本語的に卑怯な表現だと思う。同義語反復で、2つ並べる意味がない。本来は「捨象と集中」でなければならないはずだ。捨てた後、残したものに集中する、ということである。

No1018

私が見てきたダメな経営者というのは、圧倒的に情に流される人が多い。ムラ型共同体である日本のカイシャ・システムにどっぷりつかり、よきムラ人の代表者として出世の階段を順調に上り切ったタイプの人は、十中八九、情に流されて判断の時期と中身を誤る。

No1024

いわゆるMBA的な経営に凝り固まった経営者もどきが失敗するのは、情理から逃げるからである。

No1033

リストラ局面やマイケル・サンデルの命題のように、情理と合理が最終的にぶつかり合う局面では、すべての人がすっきり納得できる論理的な解はない。だから誰よりも真剣にその問題を考え尽くし、悩み尽くしたうえで、最後はなんとか折り合いをつけていくしかないのだ。

No1093

一介の課長にそんな大それたことが・・・と思うなかれ。これはしつこく、事業を継続することのマイナス面を、ボディブローのように訴え続けるほかに手はない。今年はダメでも来年になれば、みなが納得して会社として撤退の判断を下すかもしれない。ボディブローを打ち続けるうちに、社内の空気が少しずつ変わっていくはずだ。
そうやって、ボディブローが効いてきたところで、最後の一打を放つ。これは外圧を使ってもいい。

No1163

会社のパワー・ポリティクスに敗れても、今どき殺されることはないが、左遷される、あるいは近い将来、会社にいられなくなる、といったことは十分にあり得る。それでも平然としていられるか、会社を首になってもメシを食っていける自信や、何をやっても家族を守っていく覚悟があるか。これで肝の据わり方が全然変わる。
会社にすがりついていないと生きていけないやつは、簡単に寝返ってしまう。

No1200

しかし、私は大学を出ると、外資系のコンサルティング会社に入った。今の時代でこそ、華やかな職業、エリートコースのように思われているが、私が大学を卒業するころは社会的な認知度も低かったし、まずあり得ない進路だった。その会社も1年ほどで辞めて、仲間と一緒に別の会社を立ち上げ、ますます東大法学部卒の保守本流から外れていった。
なぜそんな道を歩んだのか、とよく聞かれる。おそらく、もともと自由志向が強いので、経済的・精神的に、誰かに支配されるのは嫌だったからだろう。仕事に関しても誰かに従属するのは嫌だったので、結果的にそういう進路になった。もうひとつは、好奇心である。自分がよくわからないこと、知らない分野、会ったこともない人たちに対する関心が強かった。その意味で、コンサルティングという仕事は弁護士や官僚になるより、予測不可能な面白さがありそうだと思った。

No1218

だから、ひとつの仕組みが何十年も続くとか、今繁栄している組織が何十年先も安泰だとか、これっぽっちも思っていない。むしろ、早く自分の足で立たなければならない、他者に隷属しないで独り立ちしなければならない、という焦燥感は強かった。

No1345

日本人の多くは論理的思考が苦手で、情緒的感覚で物事を捉える人が多い。だとしたら、いかに彼らの情緒にはまるようにコミュニケーションをとるかということが、リーダーとしても問われる。

No1406

これを反対派全員に対して行うのは気の遠くなる作業だが、実はその必要はない。反対派側から賛成派側に移る社員がひとり、2人と出てくると、傾きそうもなかったシーソーが少しずつ賛成派のほうに傾き始める。
これが空気の変化につながる。空気の変化を察した社員の変わり身は早い。賛成派の数がある臨界点を超えると、シーソーは賛成派のほうにバタンと大きく傾く。そうなれば、改革は成功だ。

No1433

私の場合は、若いころから人と議論をするのが好きだった。頭を使うからだ。人が言っていることを論破しようと思えば、一生懸命勉強したり、必死になって自分の頭で考えなくてはならない。
逆に人と協調するというのは、非常に楽だ。人の言うことを、ただうなずいて聞いていればよい。もちろん、日本の社会を上手に渡っていくためには、とりあえずうなずいておいたほうがよい場面も多い。しかし、上司や得意先の偉い人が言っていることでも、心の中では「この人の言っていることは本当に正しいだろうか」「どうすれば、この人を論破できるだろうか」と考えてみる。そうすることで、人間の脳の基礎体力が鍛えられる。

No1482

それが続くと、やがて彼らの敵意は、論争の中身よりもその不協和音の源に向かう。そう、論争・論駁を挑んでいる人物に向かうのである。そういう反感が社内の空気になってくると、物事は動かなくなる。

No1791

ところが、日本企業はこれすらもなかなかできない。うちはサッカー一本でいくから野球チームは解散する、となったときに「ちょっと待て。うちの野球チームには長年の伝統があり、3000本安打のイチローくんがいるんだぞ、あれほどの功労者を辞めさせるのか」「そもそもうちの会社は、野球を祖業としてここまで来たんだ。野球が本来の本業、コア事業なんだ」という類いの話が必ず出てくる。
そういう情理で、意思決定は案外簡単に歪んでしまうものなのである。

No1945

非主流派、野党は、文句ばかり言っていられる立場で、居心地も悪くない。責任はとらなくていいし、好き勝手なことが言える。そういう人たちが何かのきっかけで政権を握ってしまったらどうなるか。民主党がその最たる例である。
中間管理職でも野党グセがついている人は多いが、この手の人材は、実践においては本当に使いものにならない。

No2066

執行サイドのトップクラスにも、当該ムラ社会に浸かりすぎていない中途入社の人材が相当数いればもっとよい。そういったムラの論理から自由な人々が、一部のムラの住人から見れば、ある意味、理不尽で不条理な決断でもできるように、経営陣の背中を押すことで日本企業が「共同体のワナ」から逃れる可能性は高くなる。

No2114

日本の場合には、よく走らず、よく曲がらないクルマで、しかもトップがひとりで運転できないのだから、単にブレーキだけ強くしたところで意味がない。
むしろ、今、日本企業に必要なのは、トップがひとりでがんがん運転できるようにするにはどうすべきか、アクセルを踏めばきちんとスピードが出るクルマにするにはどこを修理すべきか、である。

No2132

社長にもっとアクセルを踏ませる、自由にハンドルを切らせるためにどうすればよいかということを組織論の観点から考えると、端的に言えば、少人数で意思決定する仕組みをつくればよい。
意思決定には、トップを含めてせいぜい3人もいれば十分ではないだろうか。

No2151

これは、オフィシャル(公式)な意思決定機関をつくる提案ではない。公式な情報伝達ルートや、意思決定機関とは別次元の話である。3人が集まって決めた後で、手続き上、公式ルートを通せばよいのである。それに企業の日々の意思決定の少なくとも9割は、普通にボトムアップのラインに乗せて決めていけばよい。ここで問題にしているのは、数少ない重要な意思決定、戦略的に思いきった優先順位づけをしなくてはならない類いの意思決定である。

No2423

私が今まで見てきた後輩たちで、積極的にコミットしたがり、かつ負けっぷりのいいタイプの多くは、長期的にリーダーとして大きく成長している。一方でミドルマネジメント時代くらいから伸び悩むのが、この逆のタイプだ。優等生で地頭もいいが、とにかく上司にこまめに指示を仰ぎ、上司が腹内で持っている正解を探り、そこにかなった答えを用意しようとする。あるいは組織の空気を一生懸命読んで、その空気に合わせた優等生答案を用意する。

No2450

やたらと上司や先輩にロールモデルを求める人がいるが、たまたま何年か早く生まれて、先にその会社に入っただけのことだから、人間的に尊敬に値する上司や先輩など滅多にいたらおかしいのである。

No2472

みんなで楽しく、気持ちよく働くことが最優先課題なら、もちろんBさんの得意技が活かせて、AさんもCさんも得意分野で活躍できる、そういう編集方針がベストに決まっている。だがそれで本当に売れる雑誌がつくれるか。出版氷河期に雑誌として生き残っていけるのか。

No2491

どんな人でも、なんらかの比較優位は持っている。だが、それが活かせる局面とそうでない局面がある。仮に、Aさんの比較優位が活かせる場面が自分のチームでどこにもないならば、Aさんには移動を勧めたほうがいいし、社内のどこにもないならば、ほかの会社に移ることを手助けしてあげるべきだ。それが、リーダーとして正しい行動だと私は思っている。

No2520

私はこの手の「薄情け」を「薄情」と読むことにしている。中途半端に優しい上司は、結局、薄情な上司だと思ったほうがいい。ミドルマネジメント時代は、目の前にいる失敗して弱っている人間、それもあまり組織階層上で偉くない人間に対して、「君自身が望んでいるこの分野では、おそらくこれ以上、上に行くのは無理だ」と、ある意味「死刑宣告」をやらなければならない。その「死刑宣告」を下すというタフな「厚情」を持つことができるか。

No2549

しかし、学芸会と同じように全員に役を割り振って、台詞も少しずつみなにしゃべらせて、誰が主役で誰が脇役だかわからない、あるいは主役が何人もいて同じ台詞をしゃべっているような脚本・演出で、よい芝居ができるわけがない。ビジネスとしてもアウト、「客は入らなかったけど、みなで頑張ることができてよかったね」と仲よく傷をなめ合う結果になるのがオチである。

てなわけで。

それとはっきり書いてはいないのだけど、国なり文化なり歴史背景の中、ムラ社会とその住人たちという性質のそもそもがあって、それは時代の経済とはちょっとマッチしづらくなってきていて、よき村人と、もっとよき村人の代表たる長との関係では色々な経済活動が上手くいかなくなってきましたねというのが今現在。そこでムラ依存型の思考回路を持つ全体の99%の人々とどうやって向き合って、よく動いてもらおうか(よく考えてもらおう、よく判ってもらおうではない)というそういうことなんだろうと思います。
それから、ムラの住人のためにこそムラがあるというのは一面では真理といえますがとはいえムラ人一名の福利と、ムラ人全員の福利と、それからムラ自体の継続と未来への福利とどれを採るんだというのが意思決定の見極めポイントでなくちゃならないのでしょうし、そういう見極めそのものは考えたことない人からみたら、時には残酷なことを言う村長だということになるはずです。ときには懐古主義的になってムラ文化の継承者に相応しくない!という誹りもありそうです。ムラ文化継承のために経済活動をしているわけじゃないことなんか、誰もが判ってるはずですが。
だけどだからといって「残酷だ」「相応しくない」の誹りにまけちゃいけません。そういった局面がデフォルトとして捉えられることが必要最低の条件なんだろうし、その局面の中で効率的に、論理的に、粘り強く、考え、説く。機転を利かせて態勢を転換せしめるということが出来るかできないか、なんだろうと。つまるところ強く信じるところがあるなら周辺の人の声に惑わされちゃいけませんし、というか周辺を味方で囲むなり、敵将を味方に変えるほどの何かをするなりしなくちゃなりませんし、ともあれ、周辺理解や周辺支援がなくたって、すべきもんは実行し実現しなくちゃダメよ、ということになりますか。お、重い。けど、自由ではある。


結果を出すリーダーはみな非情である