とある会社さんにお声がけいただいている。要旨としては、事業の一層の加速であり、社内文化の再建であり、経営環境の有利の獲得であり、経営の透明化と効率化であるということ。アタシなんかにそんなこと期待しちゃっていいのかしら?とか思うのだけど、リクエストを無碍にはできない。応!と向き合い専心の肚を固めるのが大人の男としての正しい姿勢だろうと思う。このオファーを半ばラブコールなんであると勝手に受け止めていて、そう呼ぶ事になんら差し支えはないと思う。このクソ不景気な中、不気味なほどにありがたい。不気味すぎてか、夕べは悪い夢をみた。

だけどもう片っ方で、こうも思っている。こうというのは、本来であればもう自ら会社を興してなくちゃいけないし、そっちのほうがより個として繋がる、恩ある各方面へ色々と融通を利かせられるとも思ってる。そうなのだけど、なかなかどうして重い腰が上がらない。腰が重いのは僕の脚力の衰えのせいか、それともこのクソ不景気が気分を落ち込ませるのか。単に先立つものがないということか。

ともあれ。能力的に、才覚的に、努力的に、体力的に、多々不足がある僕みたいな石つぶてを拾い上げてくれて一緒に挑んでくれよと頼みにしてくれる社なんてものがあるわけだ。涙流して喜ぶところ。アタシ的に考えても暮しとキャリアとに将来にジリジリと背中を押され続けてる訳だし、残念ながら選択肢は選り取り見取りてわけでもない。
すると普通の良識ある成人であれば、迷ってる場合でもないし、そもそもが迷いが許される立場でもなかろうとするのがセオリーなんである。従ってこちらのコンディションを全部インクルしても、半分以上の応えは決まってるべきなんである。なのに、アタシときたら、まるこし肚が決まってない。かえって混迷を極めてる始末。

迷うのは、能力とか不景気とかのせいだけでは、実のところない。一緒に仕事をしたい、できるはずと思っている連中が疎らながらもちらほらとあるということ。それぞれの悩みをきき、課題に思うことをきき、どの人も大変にピュアで真面目。そしてお互いに礼儀にことかくことはなく、向き合いは大人のそれだとおもう。支配的なのは一個もいない。そういうった彼らのことをちょっとこのままおざなりにして、次のステップを刻んでいいのかどうなのか。オレ人生として、そこに悔いを残すことはないのだろうか。たとえこの先どういう風に身を振るにしたって、なにかしら絡めとり、巻き取り、力になって欲しいし力になりもしたい。と思う。も、ここに具体的な算段はまだない。ダサい。

こういう考え方は、甘いのか。青二才なのか。田舎くさいのか。確かにそうなのかもしらんねと我がことながら思う。そういう青臭いことを言うよりもヒルズ族(笑)よろしくドラスティックにカネにのみなびくべきなのかもしらんね。でもね、そこには向き不向きってのもまたあるのよ。幸せの形ってのもあるのね。

正しいということが仮に全てを見透かすことだとして。見透かし続けて生きてくというのは正しいことなのかもしらんけど、人の気持ちを、世の造りを見透かして、あるいは見透かしたような気になって、上から目線でアーデモコーデモ言って、あいつはマダマダこいつはゼンゼンとかしたり顔ってのはなんとも性に合わないのよ。どうしたもんだろうね。田舎くさいこと言ってるんだろうな、きっと。だけど残念なことに僕の思考回路は、そういう人のことクソだと認定してる。その認定基準を改定することはもしかするとそんなには難しいことじゃないのかもしれないけど、そうすべきなのか躊躇の量が凄い。ゆっくりなるなら、さっさとなったほうが手っ取り早くていいのだろうけどね。

それにしても右を向けばクソ認定、左を向けばクソ不景気。クソとクソの狭間。どっち向いたってクソだらけなんだな。カレー味のウンコじゃないんだから勘弁して欲しいわ。だけどとにかく時間だけは着々僕のことを前に前に押し続けるの。

ただいつも思うことだし、いつも言われることは、熱量の不足なんだってこと。熱量ってのは後先考えずにやってみたいからやる系の振る舞いを繰り出させる原動力で、それってのは頭の良さと反比例した振る舞いをたくさん作り出すものなんであるからして。深く考えてしまえば、どんな人だって橋なんか渡りやしない。太古のアフリカン達だって別の大陸を目指しやしない。遣隋使だって海を越えてはいない。そして間違っても宝くじに淡い期待を寄せたりはしない。そういう意味では、間違いから全てが始まるとさえいえる。正しくは、間違い+ラッキーから全て始まるのか。

そいった抑制的に作用するところの計算能力をパッカーンと超越したところに力の源が大量に埋蔵されていて、これはもうなんつーか、産油国みたいなもんだとおもう。掘ってみたら湧いてみた。なんかしらないけど一生分はあるんじゃない?てなエネルギー。とはいってもですよ。本当なら掘り返してみたとて案外カスカスであっという間に底をつくものなのかもしれんけど、なにせパッカーンだからそういう手のことは考えない。必要がない。ピューと勢いよく出てるんだから「あ、こりゃ一生出続けるな」て直感するタイプの処理。そういうことなので、自分の心から石油が湧き続けてることを知るってのは、そもそもそれが自信を呼ぶよね。オレって持っちゃってんだよねー、溢れちゃってんだよねー、てなもんで。

だからね口は悪いけど、バカはやるってことなんです。やるてことはバカなんです。反対を言えばやらないってんならたぶんそれは賢いことなんだけど、それもそれで鳥瞰図的にみたらこれもバカなことでして、どうせやりゃしないんなら最初から考えたり賢くなったりしないで寝てればいいんです。無駄なことするのはバカです。だから結局なんだってーと、正しいか間違ってるかだとか、バカか賢いかという価値観もどきは本当は価値のことなんか全然指し示していなくて、追い求めるべきは本人の価値観に照らしたところで損か得かだけ、なのだということ。
ものは試しと勢いつけて踊ってみたら、面倒なこと色々と忘れちゃって、忘れちゃったら楽しくなって、楽しいのがしばらくの時間か期間にわたって続けば舞い上がっちゃってうっかり口を滑らせて人生サイコー!とかお寒い台詞をはけたりもするのかもしれない。で、その状態のことを幸せと呼ぼうじゃない。

といいますか。何の話だこれ。何故ここまでの脱線を許した。