数年ぶりに情報設計(書)を描いています。不器用にチマチマと細かく手を動かしながら、情報の構造を組み立てたり更地に戻したり、あるいは人の流れと個人の流れと理解力と簡便さの溝を埋める地味なこの作業が、もうどれくらいぶりになるんだろう?と振り返るものの、過去の記憶があまりに遠すぎて、全く、思い出すことができません。どこかのクライアントにサービス提供したんだろうな。

在籍中は大嫌いなのに、卒業した途端に懐かしくも大好きになってしまうというのが人情ってもんですが、今回設計書を書くことは、懐かしくもあり、もどかしくもあり、再発見もあり、なんだかんだいって楽しかった。

パスを出す感覚が、以前よりも巧く意識できるようになりました。
パスというのは作業的パスのことなんですけども。情報を設計しましょうというのは、物を作るプロセスの概ね前半に位置しています。なので当然、後ろに人が控えているわけです。専門家の人たちが。それは画面をデザインするひとであったり、情報システムとして設計をするひと、プログラムを開発するひと。この専門家の人たちへ、必ずパスを出す、ということは最初から決まっていることなわけでして、彼らの技能を最初から当てにして描くのが情報の設計のもどかしさであり、また同時に、可能性そのものなんだなと強く感じられました。図面を引く人は、図面で責任を果たすものですし、現場を進行するひとは、当然図面を信じて進行するものです。だから先にあるプロセスが、誤った考えに則って描かれていると、後工程はその余波を請けざるを得ないのですから作るということについての責任の足の長さは、結局完成のところまである。使うことまで含めるとちゃんと動くこと、狙い通りに機能すること、使う人たちが設計通りのサービスを享受するということろまで、ケアしてないといけません。
作ると使うに向けてパスを出す感覚が、自分の中に息づいていないと、ITかどうかは別で、システムの設計は形骸化に陥るように思われました。

インタラクションに関する技術について、知識的にブランクがあると設計が捗りません。
これは自戒を込めてです。四捨五入すると10年の側に含まれるほどの数年間、同業種に関わり合いながらも、それでもたとえば画面設計書を描くという作業自体から遠ざかっていまして、そういう事情から解ったようなつもりでいても、実のところフロントエンドテクノロジの現在について全然ついて行けていなかったのだ、という残念な事実にぶち当たりました。
普段インターネットを使って、IT端末を使って、ソフトウェアを使っていて、毎日といっていいほど新しい技術や新しい表現に出くわしている。そのはずでしたし、自覚的にそう振る舞ってもきました。が、結局そこに「今度、これを使ってやろう」という鮮明な目的意識が欠けてしまっているから多量の有益な情報を見流して、漫然と過ごしてしまっているのだなあと反省しました。巷には、様々の表現や機能があって、その裏側ではそれを実現するための技術があって、この技術の開発なり転用なりで数多くの便利や快適が誕生する構図の直中にあって、知らない=できない、という当たり前かつ非常に残念な一事でもって、ユーザーの利便を阻害するというのはなんとも、勿体ないことです。あとほんのちょっと使い勝手が良い/悪いというだけで、使い手にとって、それが使うべき物かそうでないかが決定づけられたりするものだと思いますので、表現とか相互性とか、突き詰めたところでやりたいですね。

使い手が誰か、が判っていると心配りが続々生まれます。
遠い過去の普段、エンドユーザーは向こうの向こうに存在していて、もの凄く見通しの悪いところで作業にあたることが当然になっていました。まあまだ若くて、人様の前に出せるような玉じゃなかったということなのかもしれませんが。自社営業の向こうの、代理店担当者の向こうの、クライアント担当者の向こうの、現場担当者や、さらにはその向こうの一般生活者のための情報設計。
それらしいだけの設計書を提示するというレベルであれば、出来なくはない。あたかも、さもありなん、というドキュメントに一般的な理屈を添えて提示することは出来ます。出来てしまうのでやってしまうし、現実の社会では、例えば140文字以内で会話するようにして、システムの側に人間が合わせるというのはほとんど普通のこととして認知されて、現実にそれで運用されている事実もあるし、ましてシステムに強制的に寄り添わざるを得ないコンディション下でしかまともに仕事をしてくれない、ルールを守ってくれない人物というのもたくさんありますから、システムのための情報設計についてそうそう罪の意識ばかりでもないですが、それでも根源的には、あまり良いことではないと個人的には信じています。
その点では、僕がフリーに振る舞ってることもあり、今回のネタは使い手の顔が見えているどころか悩みを共有し合っている相手です。彼が口に出して言わずとも、現状現場で何がどう処理されていて、処理上のどこが混線気味になっていて、その結果としてどういった問題が生じているのか。またこれを解決するためにシステムや体制がどうあるべきなのかということを普段から話し合う間柄です。だから、決して簡単だというわけにはいきませんが、さりとて要件の細部と、サービスイン後の動作イメージ、それから道具立てを1年くらい実運用した後の改善の度合いなどについて描く僕の側の試算がとても立ちやすいです。誰が使うものなのか、何を解決したいのか。そこが比喩として「手に取るように解る」ではなく現実に手に取ることができるという差は、設計の仕上がりに対してとても大きなインパクトを与えるはずだと確信できます。

解った気でいることと、解っていることとは違う。
日常を生活していて、解ったつもりで処理していることはとても多いです。自動車の構造を知らないけど、自動車を運転してる、その善し悪しを語るなんてことです。それは決して悪いこととして言うのではなく、むしろ解るということの水準というのは一般的に言ってそういうものです。知らずに運転できるということはすばらしいことですし、知らずに自動車販売をできることもすばらしいです。が知らずに、自動車の製造や、整備を引き受ける者があったらそれはそれで恐ろしいことです。立場によって、求められる解るの深ささが違います。情報ツールを設計しましょうというシーンで解っていなくちゃいけないことというのがあります。処理対象になる情報群一式のこと、取り扱う情報が生まれるとこから閉じるところまでのシナリオ、イレギュラー処理が発生すること、情報群を産みだす個々のことと情報群を活用する第三者のこと、それからバックエンドの技術概要、フロントを支える技術概要、そして人間のコンディションと心持ちのこと。そしてもちろん情報ツールが導入後、関係する人たちに与える変化の善し・悪しについて。
極端な例えでいえば、今このページに一つの入力フォームを設置したらそこに利用者が毎日毎時キーボードを叩いて文字を入力するはずである、するべきだと考える人がいるのであれば、その人はあまり設計には向いていなかったりします。あるいは収集すべき情報は全部でコレだし、その情報は徹底的に回収しなければならないのだからその数だけ、たとえば100個の、或いは1000個の、フォームを設置しようという考えの人もあまり向いていません。
そもそも必要とする情報という定義そのものに触れて、これをどこまで減らせるかが入力の手間や情報の回収率と相関しますし、そのためには膨大な情報を何に役立てようとしているのかという目的についても触れ、操作しなければなりません。また人間がシステムによって幸せにならなければ意味がないのですから、人間の側に複雑や完全を求めすぎるとそれはそれで辛い結末になります。多面的な要因を推し量りながら妥当な決着をつける、そういった間の部分にこそ設計の思想哲学が反映されるのだろうと思います。

ちょっとした対話、会話で、固定観念が容易に崩れ去って新しい考えが生まれます。
作業に没頭すると、どうしても他人に意見を請うということをおざなりにしがちです。し、僕自身がかなりそういう色味の濃い人間です。脳の中を解きほぐして、これを図面に描く。また別のテーマで混線を解消して図面に書き込む。繰り返しです。この繰り返しのなかで、何が起こっているかというと、混乱を一旦混乱のまま受け入れるということ。課題を課題として認識するということです。ごちゃ混ぜになったルービックキューブをそのままの状態で預かるという感じです。あるいは絡まりまくって玉にまでなってしまった糸をそのままの状態で預かるといってもいい。その心地悪い感覚自体を引き受けて、解決のモチベーションにするという案配のような気がします。
ですから、作業期間中、頭の中はずっと心地の悪い状態になったりもします。結局真の課題問題が何なのか、ということを発見するためにそれを預かるわけです。そしてお猿さんの蚤取りよろしく、この糸玉をほぐすのに夢中になりすぎて我を忘れ、怒りさえ覚えることもあります。これはこれで、僕なりの真っ当なプロセスなので、自分自身としての苦ではないのですが、周囲にいる方がたにはご迷惑だろうとは思われます。反省。
で、そうやって過熱気味に夢中になってなんとか解決策を編み出す努力をするのですが、そこの工程で一度肩の力を抜いて、預かり請けている苦々しい課題問題を、全く無関係で中立な第三者へそれとなくぶつけてみるということをすると、まあ相手の方の人格や能力によるところもありますが、案外すっと良い答えを貰える場合があるということを知りました。
システム処理の側から考えたら処理できる項目とそうでないのとがあるよとか、一従業員としてそんな一覧ははき出されても有り難くないどころか見たくもないとか、情報処理の様式としてはテキストデータよりもミーティングだねとか。
鵜飼いがそうするのと同じように、どうやって巧く情報を飼い慣らして目的を果たそうかという考えで沸騰している頭をクールダウンさせてくれます。まあ冷や水浴びせられるとも言いますけど。それはそれで、悩んだ苦労と時間が無に帰す瞬間ですから辛い面もありますが、スクラップアンドビルドが当然の工程だと解ってさえいれば、これは有り難い助言になります。1スクラップ儲けたぞ、という具合でしょうか。

要望の大半を叶える方法は、ITでない領域に幾らでももあります。
上とも関連しますが、やはりいかに同じ業界で、物作りに手慣れた人間であっても、制作依頼側に立つとどうしても総花的リクエストが挙がります。無論気心知れた間柄であり、ありえない請求額にならないという信頼あっての雑談ということでもありますし、またこういった(実現が不可能そうなリクエストの)雑談を初期時点で沢山預かることができるというのは、結局設計の目指すべきゴールが浮き彫りになるというのとだいたいイコールですから大切な工程です。特に依頼者自身が依頼の目的を明確に出来ているケースというのは実はほとんど存在しない(大方の依頼では先方の言葉の一つひとつを引っぺがしてゆくと結局、良い感じにしてください、だけが残る)ことを考えるとこの総花的リクエストは無きゃ困る工程なのかもしれません。設計するべき物、完成するべき物が美しく無駄なく削り出された彫刻物ならば、総花的リクエストやその雑談というのは鑿(のみ)みたいなもんと言ってよい気がします。
で、この総花を一回自分の中に預かるわけです。あの人出鱈目なリクエストを死ぬほど出してきたなあ。どうしようかなあ。を一旦持ち帰る。一人になって、このリクエスト群のリストを目の前に押し並べ、本当に要求されているか或いは要求の中で本当に価値があることが何なのかの見極めをやるわけです。すると、全部がぜんぶそういうわけではないですが、だいたい概ね結局「コレ」でしょ?という1つの題が浮き彫りになります。相手が経営者の方なら結局「利益」だったり、あるいは「従業員の当事者意識の啓発」だったりするという具合です。そこまでたどり着いたときに、気がつくことは、あああの総花的リクエストの大半はスタッフ達にどうなってほしいかということの個別テーマなんであり、それらの大半は人事や、経理や、総務や、事業部長や課長それに従業員の一人一人が、あるいはそれらの会議体、研修制度、勉強会、社内文書の行き来の中での議論が、解決を導くことだなと。このシステムの情報設計で支援出来る範囲というのは、先に挙げた一つ一つを如何に楽にさせたり如何にスムーズに繋ぎ合わせるかということなんだな、と。考えがここまでくると、だいたいどんな情報が飛び交ってるか、どうディスコミュニケーションがあるかの想像が働いていますから、その想像に間違いがないことを先方と確認し合いながらシステムの果たすべき役割をこちら側で再定義するということになります。
立派な家を立てたら家族が幸せになるかというと、そういう部分もゼロではないけど、それが補えるのは幸せのごく一部ってな具合です。人と人の問題は人と人とでしか解決しません。

一口に情報設計といっても、有様は様々です。
先にも書いたとおり、もう数年来情報設計は作業としては自前ではやってきていません。しかしながら経験上、キャリアパス上どうしてもそこのニーズが降ってくるシーンは幾度もありました(今もそう)。このシーン、ニーズ発生の水際で何をしてきたかというと、上に述べたようなほとんど状況の整理と呼んで良いようなことがらを営業として、コンサルタントとして、企画として、ディレクターとして、実際具体的な情報設計の一歩手前の段階の整地をしてきたということになります。プロジェクトの環境作りと呼んでもいいですし、顧客との共通認識づくりと呼んでもいいですかね。いざ考え抜いて落とし込む作業自体は、自分以外の、スタッフやあるいは外部の有能な設計者へ依頼をかけるということをしてきたわけです。
この経験を通して深く感じ入ることは、なんだかんだいって設計者が仕事を決めるということ。業界でIAと呼ばれる職種についている人の内訳というのは僕の目から見ると実は多様なものがあって、システムの側に立脚する設計、所謂読み物コンテンツ側というか編プロ視点に立脚する設計。あるいは大手企業のコーポレートサイト、グローバルサイト構築・運用経験に立脚する設計、基幹系に立脚する設計、そして検索エンジン最適化をゴールにした設計などです。むろん他にも色々。 
そういう特異性の面からいくと、僕なんていうのは設計者としてまるきり寄る辺がないといいますか、カラーというカラーを打ち出すような設計はしません。できません。そういうことはその道の専門家に任せれば良いという風に考えるようになりました。
ただ、面白いとおもうのは自分が「こうだろうな」と推測していた物とは違った設計書が上がってくること。そしてその設計の善し悪しを、自分の持つ価値観から一旦離れて、評価し直すこと。目から鱗ということはほとんどありませんが、なるほどそういう風に本件の課題を理解したのか・・と。あるいは解決策をそこに見いだしたのか・・と。的を射てる場合もあります。結構的の枠のとこスレスレの場合もあります。的を外してることももちろん。まあ、いいんです。本質的に見当違いのことをしていない限り外してくれて構いません。というかハズレかどうかは、実のところ実装して運用してみない限りは誰にも解らないことなのですから。場合によって、コンテンツの魅力で、システムの円滑を測ろうとする事案、スタッフもありました。僕の胸中には大きめの疑問符が浮かびますが、それでも、それが解決だという熱を帯びたプレゼンを聞けば、じゃ挑戦してみようかしら、と思い直せることもあります。(ちなみにそのときのコンテンツ案は案の定ボツにはなりましたけども。)

作業環境は、なんだっていいです。
仕事の仕方にも依ると思いますが、設計は作業として脳味噌リソースは莫大に喰らうのですが、PCリソースはあまり派手なものは必要としません。というか、事実上、紙とペンだけでも十分にやれるはずです。コンピュータは繰り返しの作業を自動化したり、物事の整列を容易にするためにあって、それ以上に有益なリソースではありません。今回メインで使った端末は、Macbook Air。ソフトは OmniGraffle ProOmniPlanTree、それに Numbers くらいのもので、全部一気に揃えても15万円はしないくらいです。それに各ソフトは、一斉に全部が起動していても、MBAが挙動不審になることはまずありません、軽いもんです。なかでもとくにお世話になったのが OmniGraffle Pro。以前は、画面のワイヤーフレームを描こうとなると、やれエクセルだ、パワポだとなんとも目的にそぐわない代替品を使用することが通常だったのですが、OmniGraffle はもうワイヤー描きのためにあるソフトウェアといっても良いくらいに便利です。操作の感覚としては、カジュアルなイラレだ、と言えばだいたい伝わるでしょうか。
まあでもとにかく、自分自身の思考をアウトプットするのに最も適している、便利だ、邪魔でない、と感じる事の出来る道具であればなんだってかまいやしません。

とですね。久しぶりの作業に様々感じ入るところがありつつ、今現在は当該の設計を一旦完了して、一息ついています。ビールでも飲むか、と。
専門家の協力や、身近な人の力を頼む気持ちからか、単に年齢と経験のお陰なのか、あるいは案件数に追い立てられないお陰なのか。過去と比べると相当精神的な余裕が備わっているみたいです。設計の仕事はとても楽しく、再発見も多く、また自分なりの職業観の整理、先鋭化もでき、なにより価値そのものを生み出すことが叶います。
こういう仕事なら、どれだけでも引き受けたいなと素直に思っています。今は、ですけど。