自由気ままに生きていながら何ですが。残念なことだけど、何を提案しても無駄だという場合がある。結論側から逆算して、もう絶対、変わらないことが解りきってる。この無駄なシーンにぶちあたるとき、それはほとんど、我が儘が常態化してしまった人、我が儘である状態について疑問を差し挟む余地を 1mm も残していない人等との会話になる。
我を通そうというときの動機というのはだいたい、本人の世界観の内にある欲得と絡んでいる。金銭欲や物欲、立場や体裁、見栄や身近な協力者に対する相対的な比較優位を自分の物にしていたい、そういう想いがその人の世界観の中で重要な位置を占めている。

大本、提案というのはもともと、ある課題があって、これをクリアしてゆくための方法の検討と打診のことをいう。
そして主体がどこにあれ、課題をクリアするときに概ね誰もが悩み知恵熱を出すテーマというのは、解決のための方法論そのものではなくて、そのもう一段掘り下げたところの、時間や場所や情報や人や能力や資金などのリソースが無尽蔵でないというそちらの課題のことだといって間違いないとおもう。もっと別の言い方をすれば、ある課題をクリアするのに、相応の解決リソースをどこかから調達してきて、これを差し出さなくちゃいけないということ。それに悩む。綺麗な例ではないけど、例として言えば、人質の解放には身代金が必要になる。誘拐犯の検挙には警察力が必要になる。警察力の保有には税金と担い手が必要になる。税金と担い手が生まれる社会づくりには安全と安心の価値が高く認められる土壌が必要がある。とかなんとか、そういう具合で一筋縄ではいかないのだから、悩む。

課題の中心にいる人物はどちらかというと最大の被害者であるという認識に支配されていて、実のところ、自分自身が課題の根本的病巣であり、であればこそ同時に、課題解決の主役であると言う事実に目を伏せようとすることがとても多い。極端に平らげていえば、本質的に「貴方次第ですよ」という状況に対して、「あの人のせいで・・みんなのせいで・・世のせいで・・」と切り返すような。まあ、実際共同体の先行き運命の心配を一心に背負ってる自覚があればこそ、「なぜ自分ばかりが」とか「みんなも・・・するべきだ」とか想う気持ちが湧くことそのものは人情だし分からないわけではないのだけど、あえて、そこは押し通らせてもらおう。そうでないと埒があかない。

全ての課題がそうであるというわけにはいかないけども、せいぜいビジネスの内側のほとんどの課題のクリアに会議って言えば、最も早く、最も安く、最も確実に、効果を示すことのできる解決策というは、課題の発生源たる本人が持っていると想ったほうがいい。その人の徳なり格なり性質なり思想哲学を理論を、改めることであったりする。つまり実のところ、時間と金をかける思い悩むよりも、これまで押し通してきた我の点検時期が来ましたねという解釈ができさえすれば、それで賄えることのほうがよほど多いんじゃないかと、近頃想う。再び喩えていうと、地域紛争を解決するには多大な資金と人命と文化的発展の機会を犠牲にしながら武力を蓄え、力で相手を打ち負かすやり方が概ね選ばれるわけだけど、解決の方法はもう一つだけ許されていて、それは諍うこと自体を諦めて互いに仲良くなってしまうというの。まあこれが選ばれることはほとんど無いのだけど、さりとて誰かがそれを禁じているわけではない。何かがその選択を阻害しているとすれば、何かは、一人一人の心の中にある、自分の考えと感情が間違っているかもしれないなどとはこれぽちも考えない、その我のパートが相当する。

結局、課題らしいものがあるとき、もっといえばそういう課題があって困るという手の相談を受けるとき、殆ど必ず、中心にある誰かの、信じ込みとか思い込みとか頑固とか、あるいは正義なり大義なり、もしくは利己的な考え方なりそういったものが、場と課題とを固く結ぶ鍵になっているのだとおもえる。少なくともそう思って相談に耳を傾けると、解決へ向けて採るべきアクションの在り処にたどり着く、その思考の作業効率はとても高まる。

さて。会社のコンディションが思わしくない。という。

どう思わしくないのか。聞けば、従業員のレベルが低いという。括って言えば、能力レベルが低く、忠誠心が低いという。それはたとえば、出社時間を守ることができない。仕事の品質が低く度々顧客との間にしこりをうむ。真摯に取り組まず休憩ばかり取っている。従業員同士の協力関係が弱い。従業員の経営者目線が不足している。会社の魅力を唱え内部的求心力を演じる心根の従業員がほとんどいない。そう言う。
なるほど。しからば業績にさぞかし響くでしょうと聞けば、幸いにして商品サービスへの問い合わせは年々増加の傾向にあり、流石に月単位でのブレは御しがたいものがあるがそれでも年間でみれば売上獲得に腐心することはあまりないという。また利益管理と時間管理に重きを置く経営を実践していて、黒字を維持しているという。
これは素晴らしい。で、この素晴らしい業績の持続と更なる向上に向けて、何が欲しいのか。現状では、売上の維持、利益の維持、求心力の維持、商品品質の維持など経営事業管理、製造管理の殆ど全ての工程で、経営者である自分自身が寝る間も惜しんで事に当たっているため、頭打ちがある。組織共同体への精神的なコミットが高く、能力の高い管理者、自分の分身のような右腕、が必要であるという。
大変、尤もな話だと思う。どこの組織も概ねそんなもんだ。願うことがハッキリとしているのならおもい悩むことはないし、第三者へ相談する必要はない。考えるところをただ粛々遂行してゆけばよいのだから。がしかし、それでもなお、悩み苦しみ怒りを覚えるという。身勝手にも都合良く会社資源を食い物にしようとする従業員に腹が立つという。勝手な理屈を持ち込んで社内を荒らす中途の求職者に悩まされるという。リソースコントロールが上達せずやりたい放題赤字を垂れ流す中堅のクビを切りたいという。
そう思うならそうすればいい。決裁権限からいって妨げる物は何も無いわけだから。が、柵んでいてそれは直ちにはできないということ。柵みを柵のママにしながら、題の解決に挑みたいということなので、それを一旦こちらで飲み込んで、じゃあてんで欲しい物を問えば、会社経営、事業経営について造詣が深くまたその経営に発揮されるところの手腕に優れ、社への精神的忠誠を持ち合わせ、商品とその生産工程に詳しく、生産管理に長け、従業員達へ指示命令が適切に成され、なおかつ彼らにとっての求心力たる人物が欲しいのだという。

・・・。
僕からの次ぐ句は無い。いや、あるにはあるが、底なしの無力感で切ない。
僕に言わせれば、それは商品の開発、普段のサービスの提供、そして健全な収益を引き受け、応えてくれている従業員への感謝を忘れたという告白なんであり、自分自身の人を寄せ付ける求心力の無さについての告白なんであり、また管理者としての無能をもう一人自分が居ればクリアできるという全く合理性とも論理ともほど遠い、極端に肥大化した思い上がりについての告白にしか聞こえない。共同体の幸福のためという体裁をとりながら、経営論を気取りながら、経営の厳しさを盾にしながら、その実狡猾に他者を煙に巻いて自分自身のか共同体の持つ箱と社名の安寧ばかりを願う人の言に聞こえる。無力感はどこからくるのか。提案や解決方法についてではなく、問題の在り処についての無力感だ。強いて、今のありさまなり未来への断崖を問題だと設定するなら、その問題の根本に横たわっているのは、他ならぬ相談者自身の経営観や社会観、人間観の課題だ。自身の弱さや臆病さや無知を、仲間の目から覆い隠すために、身につけた経営論や一流の厳格らしさの演出や、みせかけの整合だけを目指すような虚勢や見栄、思う侭を手に入れたい欲得や傲慢さの隠蔽。そういった意志の全てを含んで「また」我の課題だと。

「我」という語は、其れ自体「個性」とかと同じように、数多ある有様を中に含むもので、我そのものは否定されるところでは無い。というかむしろ全く何も無い更地に人気が集まる大きな動機を作り出す武器になりうるもので、生来人間に備わる機能としての妥当性はとても強く感じる。が、そこに何かが生まれ始めたときに、生まれた物、人、社会、ルールなどの全てとの間に葛藤を産む弱点にもなりうるとおもう。また我は、たった一個のささいな嘘が、一回り大きな嘘を生み続けるのと似て、初期には極小さくて、複数の関係者へ幸福をもたらした、たった一個の我は、肥大化する影響力と対になって何れ意図せず、別の我をしらみつぶしに潰してゆこうとするようになる。そこに、何故はない。訳も、理もない。ただひたすら特定の姿以外は許容できない、勘弁できない、承認できないという衝動そのものが我の正体なのだから。特に殊更自分よりも大きな我の存在は決して許せない。ただ、許せない。

個に立ち返ったときには、人は誰でも、我に根ざして生きていたいし、勤めていたいし、報償を求めはじめる。上も下も右も左も無く、関わる器質的障害が無く、ある程度安定した環境の範囲内で育てば、そうであることが極自然な人間の状態といっていい。オレは場を提供した、だから見返りは相当量自分にあると思いたい。私は労働力と時間を提供した、だから見返りは相当量自分にあると思いたい。そういうもんだ。そういうもんだ、と覚るところがこの課題解決の議論の出発地点になる。そしてこの問題が解決しやすい場合と決して解決しない場合との差は問題の持ち主の人としての成熟度、円熟度によるところになる。

我の統制が効く、自分の言動が客観視できる程度に成熟していれば、解決は全く難しくない。あるべき(と信じる)組織の有り様に向けて、差し出すべき物を差し出せば、差し出したその物量の上限まで得たい結果が得られる。皆が幼稚園で教えてもらうところの、自分がされて嫌だと想うことは他人にしてはいけない。自分がされて嬉しいことを他人にも施しなさい。このもの凄く当たり前のことが、実践できない。施されたいと思うことがあるならまず自分から施す。これを忘れてしまう。自分は従業員の暮らしに責任を持つという美しい覚悟はいつしか裏返り、給料を支払ってやってるのに働かない従業員どもという憎悪へ、合理的に、利己的に、すり替えられ安定する。必ずしも施した分量が帰ってくるわけではない。というよりも見返りを見込んで、施しをせよ、と幼稚園の先生は教えなかったはずだ。ただ、社会でやってゆくということはそういう心配りが肝心なんであり、そうやって生きていれば、社会人としての信頼と皆からの好意を寄せて貰えるというだけのことだ。だけ、とはいったがこれは代えがたい価値でもある。この関係性を信じられないなら、あるいは何かの切欠で強者として蹂躙する側に回り込もうとするのなら、彼はすでに社会や組織を統べるのに向いていない。共同体を辞退した方が良い。もっと卑近に言えば、自分は格好をつけながら、皆には素直純朴を求める。これは道理が通らない。自分は金に執着しながら、皆には滅私奉公を求める。これは道理ではない。自分の罪を誤魔化しながら、皆の過ちを論(あげつら)う。これも道理としておかしくなる。そういう人の周囲には、人の結びつきは出来づらい。強いて言えば、似た者同士の傷の舐め合いのコミュニティは出来上がるかも知れないが、そこには本来欲しかったはずの、素直な者や、奉公する者や、罪を許す者は決して集わない。間違って迷い込むことはあるかもしれないけど、定着することはまず望めない。

人間には色々ある。ビジネスの尺度の上等と下劣とだけじゃない。その人なりの事情や背景、脳や身体の器質的な違いが、個性が、そして生きる空間と時間とがある。その潮流の中で、力を発揮できる時もあれば、足腰が弱まったり気持ちが落ち込んでどうしても前に進む一歩が踏めない時もある。放課後に校庭に集まってサッカーをしたら22名が楽しいじゃないかという幸せなアイデアが生み出せる時もあれば、つい出来心で不幸をしでかす場合もある。そういったバイオリズムの要素も含めて、生涯を社会と共に歩むことになるし、生涯の出来高もそこに浮き彫りになる。
これを短期的な的に絞って、あるいは結果に結びつけた断片的な能力に切り出して、そこだけを評価指標として、そこだけを契約条件として、そこだけを監視し続け、そこだけを責めさいなもうと思えば、これは全く簡単なことになる。というよりもむしろ極めて幼児的な視点での合理性の主張だ、となる。と描けばそれはそれでそれなりに立派に見えなくも無いが、結局とどのつまりは、単に夢想家ということだ。夢想家は頭の中にある夢想を是として、夢想と違う現実を否とする。これは決して夢想家が悪いというのではない。何か面白いことがやりたいね、放課後に球蹴りやろうよ!といいはじめるのが夢想家、そういう役割ということだ。これはこれで事の始まりにおいてすごく重要な勤めを果たしている。この人がいないと始まらないといっても過言じゃないし、この人が居たから始まったという事を皆で認め合うのは其れ自体がとても幸福なことだ。だが、発案者や発起人が、直ちに、そして永劫、有能なプレーヤーかとうと勿論そうではない。初期のある一時期においてそうであるケースは無くはなさそうだけど、永劫そうというわけにはいかない。より身体能力やゲームの解決力に長けた別の人間が必ず現れる。球蹴りを発明した人間が、歴史上最高のサッカープレーヤー、監督、コーチではないということについて、そういう役割の区分や、向き不向きの区切りが、支配的にではなく理知的に行われる必要ということがあるということ。これを理知的に執り行うには、あるいは立ち上がった共同体の健全な成長には、ゲームなり制度なりに、事の善し悪しのジャッジメントを譲ることが必要で、いつまでもダラダラと創始者自身の夢想に付き合っていてはいけない。夢想に付き合うことは、創始者個人の満足に付き合うことであり、また創始者とともに消える文化でしかなくなってしまう。
僕たちはサッカーという球技をよく知っているし、それを観戦するにせよ参戦するにせよ、とても熱狂し幸せを感じるのだけど、だからといって、このゲームを楽しむのにその事の始まりや創始者を知っている必要はこれぽちもないということもよく知っている。

誰が発明者か、発明者がプレーヤーとして有能か、発明者が旗頭という以上の実務レベルで権限者でいつづけることが文化の発展にとって有効か。また発明に向いた能力が文化の発展に転用が可能か。ただ素直に問えば自ずと答えは得られるところだとおもう。もしも我欲を離れて、ひとりでも多くの有能な管理者やプレーヤーが自ずと旗の下に集い、生活の糧を得て、あるいはそれ以上の幸福感を得て、社会に有用な生き方の手応えを実感できるそういう場を作りたい。また、外部からも、あの旗の下にはいつも、対価を支払うべき新しくて楽しく創造性豊かな価値があると感じてもらうことが叶う場所にしたい。仮にそういう場所づくりを願うのなら、何をしたらいいか、自ずと答えは見えてくる。創始者の、良くも悪くも周囲を巻き込み回し始めたところの、発起のアイデアを今一度強く意識してアイデアの価値を信じ直すこと。この自信を後ろ支えにして、価値と人とを、掛け値無しで信頼し直すこと、それだけだと思う。

ここまでのことは課題の解決策の提案の前段として、渦中にある当事者に確りと意識してもらわないといけない。この心根の問題はどこかのコンサルタントがそのコンサルティング業務の中で語ることは、まず、期待できない。
反対に、このことの説明が不必要な人物があるなら彼は最初から課題の解決策に窮することはない。むしろ課題のことを降りかかる火の粉、従業員の謀反、言われない厄介事としてではなく、はじめから自らの身体の一部分として備わっていた特長だと認識ができているはずだし、その解決策を平生の業務として処理しているはずだし、しからば当然、成長か永続性か回収かを前提に、新たな価値を得るときの当然の所作として、配分するべきリソースを見極めて、プロジェクトを立ち上げ、その目的と目標を付与し、信頼する社内外の関係スタッフへ実行の依頼をかけることができるはずなんだから。

さてこの話の大本に戻ろう。では、そこに個人の創造性が最大限に価値として認められる仕事があるとするなら、誰がその仕事をサボりたいというのか。そこに互いに信じ合い認め合う仲間が集まる場があるとするなら、誰が人と場への背反的な好意を選びたいとおもうのか。そこに身を寄せる組織がありこの継続と自分の暮らしと未来の安定が共にあるとき、誰が赤字を垂れ流しを好んで行うか。

いつしか距離ができ「自分とは違う」従業員たちに、信頼の代わりに疑いのまなざしを照射し続け、絶対にいつかヤるという心持ちの性悪説の監視体制が引かれ、半ば容疑者のように取り扱い、来る日もくるひも10分という単位の時間で行動を定義して縛り、創始者の世界観から僅かでも逸れようものなら慰めよりも責めを与え、話し合いの場では従業員の専門領域外にある経営の理論と倫理、厳しさらしさを振りかざし、勤めをまっとうした者の労を労うことを忘れ、已む無く止めていった者を口汚く罵る経営者がいたなら、僕は「自分とは違う」その会社にきっと毎朝遅刻してゆくし、反目するし、そこの利益のことなどどうでもよくなってしまうし、自らの僅かばかりの食い扶持など威勢良く捨て去ってしまって、共に生きるべき別のパートナーを見つけ出して、そこで悔いの無い人生を謳歌したいと願うとおもう。そしてこのただの人間としての自然にわき出てくる反応を、どんな理屈をもってしても、ねじ曲げることはできないし、また曲げてやるべきではない。曲げることは歪しか産まない。


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