三宅秀道著の「新しい市場のつくりかた」を読みました。市場をつくる・見いだすということ、ニーズと商品に関する、感じている違和感、ただ感じてばかりいて言葉にしづらい違和感の部分、これを上手に浮き彫りにして描いてくれています。

とても参考になります。

No569

「あなたは、しあわせになりたいですか?それとも、しあわせになりたくないですか?」と聞いて、なりたくないと答える人はいるものでしょうか。そもそもそれは、同語反復的な問いであって、「もっとそうなりたい状態」のことを、まさにしあわせと呼ぶのではないでしょうか?

No594

誰しも自分の人生、なんらかの方向で、より望ましい状態に近づくように、ベストを尽くしたいと思っているものではないでしょうか。人によっては、あるいは分野によっては、そんなに頑張らず、まあぼちぼちでいいやと思っているかもしれませんが、そのぼちぼち具合も、ちょうど良い感じに望ましい「ぼちぼち具合」を願っているならば、ベストを懸命に追求しようとしているということになるでしょう。

No634

それが証拠に、生きていて時々、新しい暮し方、しあわせに触れて、ああなんで自分はこれまでこのしあわせを知らなかったのだろうと、それまでの自分の認識不足を今さらながらに悔やむことが、時々あるではないですか。あるいはまた、自分の物の見方、価値観が変わって、なんで今まではこれをしあわせと思えなかったのだろうか、そう思うときが、時にはないでしょうか。こう思うのは私だけではないと思うのですが。

No680

私たちは取る行動を状況に応じてどうにか戦略的に取捨選択していて、本能のほどほどの抑制に、時には失敗して流されたりはしつつも、本能以外の何かの行動のパターンを後天的につくり、それに従っています。つまり、それが「文化」というものです。

No1074

つまり、技術開発の不足は気づきやすいが、問題開発の不足は不足とさえ思わないのです。
こんなことでよいのでしょうか?だから、なかなか新しい市場ができないのではないでしょうか?とするならば、現代の私たちが、まだない新しい市場を創造したいならば、やはり文化の新開発の第一歩としての、問題開発に着目するべきではないでしょうか?

No1683

今、組織として功成り名を遂げた名門老舗大企業に、同じ勇気を持てる立場の人がどれくらいいるものでしょうか。それを持ちにくい組織構造があり、そこから硬直的な組織風土ができあがっているとすれば、それはつまり、組織制度の構造として、新しい問題を開発するには向いていないのではないでしょうか。

No1708

日本の技術が優れていると言われていたが、これを検討してみると、製品の歩留まりを上げるとか、物を精製する技術に優れたものもあったようだが、米国では資源が豊富なので製品の歩留まりなど悪くても大勢に影響なく、為に米国技術者はその面に精力を使わず、新しい研究に力を入れていた。ただ技術の一断面をみると日本が優れていると思う事があるが、総体的にみれば彼等の方が優れている。日本人は、ただ一部分の優秀に酔って日本の技術は世界一だと思い上がっていただけなのだ。小利口者は大局を見誤る例そのままだ。

No1743

私たち日本人が、というと主語が大きくなりすぎていささか荷が重くなりますが、今暮らしの中で使っている多くのモノが、まず最初に「こんなモノがあればいいのに」というコンセプトから創造されたのは、日本国内でのことではありません。家電やクルマにせよ、コンピュータにせよ、その多くは最初は欧米で「それがないこと」が問題として設定され、その解決手段として実物が開発されてきました。

No1809

では、なぜ組織の目的を再設定することができないのでしょうか。実はこの問いにも、本当は答えはわかっていると思います。これまで時計の精度を上げるために何十年と取り組んできた方たちが、組織の、部署の身内にいる以上は、その人たちの努力を無下にはできないのです。

No1853

近年、「プロジェクトX」に代表されるようなある種のビジネス情報番組を見ていると、事業組織の苦労話が大変耳に心地良い自己陶酔的な物語商品として、広く消費されていることが目につきます。それを好み、支持する消費者がたくさんいるからこそ、その苦労話の市場はこれだけ繁栄するのでしょう。
私も、そうした苦労話が正直大好きですが、しかし、あまり健全には感じません。問題解決の苦労話ばかりもてはやしているように見えるからです。

No1910

社内で関係者が増えると、社会変化に応じてその人たちの認識を補正・更新するコストが高くつくようになります。それを払うくらいなら各人が適宜認識の「使い分け」をして乗り越えれば、角が立たないと考えるようになります。それができることこそが有能さだ、とまで考えられるようになります。

No1953

ともあれ、「新チームのメンバーを選抜して新しい場をつくり、しがらみのないところでゼロから新しい組織をつくり、問題を解決する」というようなパターンは、日本の組織文化の伝統にはなかなか見当たりません。

No2009

残念ながら、日本の企業社会には、中小企業に対する偏見が濃くあります。大企業の人たちから見ると、一番身近な中小企業のイメージは、子会社であり、下請けです。それはしばしば、出世コースから外れた人たちが不本意に選ぶキャリアパスになってしまっています。そうすると、事業と直接関係のない社内でのプレステージや、自分のプライドがまとわりついて、「小さな組織=ステータスが低い組織」という先入観になって、その小さな組織から学ぶことがある、ということ自体が屈辱だと感じられるような対応をする人は、実は多くいます。

No3263

成金たちは自分たちでは商品の良さがわからないけども、貴族たちが買うのなら、これは良い物だろうと信じて、その商品を買うわけです。つまり、貴族から見たら、ブランド消費ではないのに、成金から見たら、それと同じものを買うことがブランド消費なのです。
身も蓋もないことを言いますが、よほどの仙人のような人は別にして、これにはあの人と一緒にされたくない、というような社会集団もいれば、あの人たちと仲間だと思われたい社会集団もあるのです。

No4572

しかし実際には、「良い商品」の正解が何かという問いの答えは、あらかじめ決まっているものではありません。こちらの働きかけようで正解にも不正解にもなりうるのです。なぜならば、商品の良さというのは文化的・社会的文脈における価値の問題であって、技術論で完結しうる機能の問題ではないからです。

No4589

しかし、優れたパフォーマンスを発揮する中小企業は、現場は現場でベタで泥臭いなりの強みを模索しているうえに、トップはトップで必死に商機を求めて社会を探索している人が多い、ということを見逃してはいけないのです。

No4720

悪い意味で「計画的」な組織、それに属している人は、得てしてその逆ばかりやっています。会う前からどんなことを言いそうか事前に予想できる人、会う前から会えばどういうメリットがあるかはっきり知れている人、つまり、目先の底の知れた打算の限りで、会いたくて会おうとしている人とばかり会うようになっています。

No4809

まだ自分たちが結合させたことのない、新しい要素新結合のパターンを、どこに見出すことができるでしょうか。それは会社の外の社会にしかありません。

No4815

「知らない人と最後に仲良くなったのはいつですか?」
危機感を持っているはずの組織の人ですら、そう言われると虚を突かれた顔をするのままだ良いほうで、この問いの意味に、にわかに気づけない人も少なくありません。しかし、自分の視野の外に、新しい新結合が存在する可能性があると思わない人に、何ができるでしょうか?

No4846

私は、新しい需要や市場や文化や商品といったものも、ここにある道のようなものではないかと思っています。荒野でも歩く人が多くなれば、もうそこはすでに道なのです。

新規事業や新商品の開発の場では、不を見つけようとか、独自性を再発見しようというかけ声はままありますが、そのさらに向こうのより豊かな生活者の暮しについて具体的世界観を持って語られるというのは希。希かどうかというよりも、その作業はとんでもなく難しいことです。だから誰しもが、あるいはだから大資本に、あるいはだから大組織によってばかりなされる訳でない。むしろシーンにおいては一人の想像力や小さなチームの方が余程効果的だったりするだろうと思います。し、それに巡り合わせや出会いや運の要素が、それを見逃さないセンサーが、そしてなにより問題設定の力、想像力が不可欠です。
じゃってんで具体的にどうすりゃいいのか。そういう風に心がけて、そういう風なまなざしで、生きてゆくということしかできやしないのだと思います。そういう意味では特効薬的な書籍じゃないです。が心の構えを持つ、是正するギプス的な感じで、効能があると思います。


新しい市場のつくりかた―明日のための「余談の多い」経営学