本田哲也著「新版 戦略PR 空気をつくる。世論で売る。」を読みました。アスキー新書の手軽に読めるタイプのヤツ。

日本国内ではPRについての理解と活用は非常に遅れていること。それゆえPRの市場はまだ小さい。けれども欧米の例をなぞるとするなら、広告費とPR費とが肩を並べるほどの市場の構造になっても不思議はないということ。また機能役割的な面からいっても、広告とPRとはそれぞれその役割を棲み分けることになるとも。

僕自身振り返ってみるにつけ強烈な「世論」(著者が言うところの空気なのかしら)というものをあまり肌で感じたこともないし、あるいは、実感値を持って参加したこともない。ホワホワしたレベルでいえば、「今売れてます」系の売り文句(つまり広告が世論を描いてみる体)に乗っかるひとが大勢いるというのはなんとなく感じてはいるけども。でもそれは別に世論というのともちょっとちがうしね。
で、何を思うかというと、じつのところ文化的にか民族的にか人種的にあるていど均質な日本という場所で、思想が世論を形成していったり、あるいは世論と世論がぶつかり合うというシーンの経験があまりなくて、そのことが、PRへの無理解を産んでいるのかな、という風に思いましたよ。

オバマが「チェンジ」と言ったら、もう片方の候補者は「伝統!」とか言う(いや言ったかどうか知りませんけど)、とかそういう世論のぶつかりあいやその生み出す潮流の描く模様そのものを知らない。国内で起こることといえば、せいぜいマニフェストがどうであるとか言う程度だし、マニフェストの中身が何個かちょこちょこと違う程度だし、その違いは思想哲学や持論というよりもマニフェストの政策の実行可能な条件に関する認識に由来する差異なんであるという風に大人な解釈に落ちていっちゃいますよね。だから仮に政権政党が何か達成しなくても「ええ条件を見誤りました。ゴメンナサイ」ではいおわりという。

なので、PRの背景には共同体内部での思想同士の差異があって、それが結構お互いに越えられない溝になっていて、だけどどっちかが考えを変えてもらわないともう片方が生きて行かれないという過酷な環境になっちゃうのでそれはいけないと、しっかりと論拠や証拠を持って、また持つだけじゃなくて仲間と(敵と)情報共有して、それでもって、オレも皆も住みよい方へ、得な方へ進んでくという、なんかそういう社会的な構造があるのかなとか夢想してみたりします。いや完全に夢想なんですけどね。

日本国内では近年、原発の件というのがあって、デモ運動とかもあって、それがすなわち世論だったかどうかは知らないけど、東日本に住む一人一人が命の危機を感じたはずだし、原発の正当性について一瞬だけでも疑問には思ったはず。それでも結局、あるタイミングからマスメディアやネットで、原発の経済合理性を唄うメッセージがバンバン打ち出されて、最終的に生命や安全、安心よりも経済合理性が優先する(そっちのほうがクレバーな日本人で、廃炉とか停止とか言ってるヤツはクズって)方向の風潮が上手に出来上がったのかな、と。
するとやっぱり PR ていうのは凄いものだな、なんて思うのですが、どうですかね。


新版 戦略PR (アスキー新書)