Mubz snap

そうして、いよいよ話は佳境に至りまして。

因子も尺度も値も何も定まってはいないけど、それでも「何かしら」で測ったとき、人ってある程度の分散を描いているという前提。この前提の中で、分散具合が正規分布してると仮定するのなら、中央の辺りにいる人はいつだってだいたい正しくて、右端に位置する人は発明家とか、冒険家とか、ある種の特殊な才能を高く評価されることがあって、左端に位置する人は特殊な才能が今の社会において有用でないために頭オカシイ扱いをされるという。
そういう構図を描いてみたときに、総ての人がちゃんと真ん中の辺りに居座ることができるのかというとそうはいかない。分散的に分布しているのだから。右端も居れば左端もいる。それに自分が、右か中央か、左かなどということについてどれほどの人が正確に理解できる物かというと、自分じゃ理解などできやしない。「何かしら」は人から見た自分で決まる要因であるから。するともう随分長いこと、というか生まれ落ちた最初っからか乳幼児期から、左の方に居ちゃってるんじゃないだろうかと言う事実があるなら、そのことについてどう気づけばいいのだろうか。ひどくすると年々左へ左へスライドしていってる可能性はないだろうか?そうしてそのこと自体に当人ばかりが気がついていないのじゃないか?

そこでは、中央に位置するということは、適当な見栄を張り、適当な嘘をつき、適当な情熱を語り、適当な社交を演じて、適当な欲望を果たすということかもしれない。右端に行くのは、スポーツやアートの実力の世界を抜きにしたら、とんでもない見栄を張り、とんでもない嘘をつき、とんでもない情熱を語り、とんでもない社交を演じて、とんでもない欲望を果たすということになるかもしれない。すると左端へ向けて進むということが一体全体どういうことを示しているのかというのは言うまでもないのであって、生まれる時代を間違ったことを恨むか、正規分布の軸がグッと左側にスライドするかグルッと軸が裏表反転するような驚天動地が社会に起こるのを祈るくらいしか、とくに施しようがない気がする。

でもそうやって考えると、軸の構え方そのものがもう型落ちしてるのかもしらんなと思えたりしてくる。当世で当然である、普通であると信じ込んでいるようなことが、よくよく冷静に見返してみたらば案外真逆で、裏の方が赤くて面白い、表側は黒くて普通で詰まらない、なんてことになるかもしれない。


SIGMA 30mm F1.4 DC HSM [キヤノン用]