原則的にここに始めるのは、バカ話なんですけどね。昨晩、入学試験の受付時間に間に合わずに、丸一年の苦労が水泡に帰す、その瞬間を味わいました。夢で。
まあ夢とはいえ、そこで感じた感情は強烈に悔しかった。その場に居合わせた三名の友達(誰だはかしらない人たちなんですが)に、妬み嫉みをガーとぶつけた次第。「オマエ等は間に合っていいよな、ペッ!」的な気分。
で、ですね。
ここで話したいのは、その夢のストーリーのことではなくて、夢の中で得た感情について。
すごく子供じみたストレートな怒り、悔しみの直情を体験できたことは結構貴重だったなあと。まあ回想的というか模擬的な体験でしかないわけですが、ああいった感情って、子供の頃は当たり前に持っていたし、度々制御効かず発露もしていたもんです。そういった直情的な、振る舞いは問題だけど、感情そのものが、まだ自分の中で死んではないことを確かめられたような気がして少しほっとしました。
あと個別的ですが、地団駄踏むような悔しい想い、それがどこからともなく自然とわき起こる小脳や延髄に対する素直さは何にも代えがたく大切ですね。当事者本人としてはもう気持ち滅茶苦茶でコンディション悪くてひたすら辛いばかりの、あのバネの縮む瞬間がないと、その後の跳躍は期待できません。
というようなことに今さらな気づきを覚えながら、考えるのは、あまり前頭葉ばかりで現象を処理しないように注意しなくちゃいけないということ。前頭葉に限らず大脳皮質系で、物事を処理して生きていればそりゃ、合社会的に振る舞うことはできるでしょうし、とても生きてゆきやすいことだと、体験を持って確信します。
が、果たして。それによって押し殺されるのは何かというと、他ならぬ自分自身なのだと想います。言い換えたら自分の小脳や延髄や脊椎なんじゃないかなと、半ば比喩的に、憶測します。
本当に自分にとって満足かどうかよく判らない事柄に対峙したときに、一般的に言われるのと同じに自分をフィットさせて、テーマ性を模写して内部化してつもりになって、テーマに社会的意義を付加して、世のため人のためと一所懸命振るまい、それを数年〜数十年繰り返し、その最果てに何があるのだろうか?ということを一度考えてみると良いのかなと想います。
夢って多少瞑想と似た効果がありますよね。