Mubz snap

自分以外の対象物については、ロジック、ファクト、数字を大切に考えるし、それを明確に口で言い表せるように鍛錬を積む配慮をおこたらないようにありたいと、かなり意識を高めておるのですが、事が自分事、とくにプライベートな領域に関わる自分事となるととたに「なんとなく(適正と思えたから)」とか「当然(あるいは偶然)そう」というフレームに、かなり多くの自分的事実が埋蔵されていて、もはや発掘が困難となってしまいました。職業PRマンが自己表現となったらとたんに下手クソ、のような状態です。

自分が何者で、過去をどう過ごしてきて、選択と行いにどういった意味合いが含んでいて、その地続きとしてこれからどこへ向かうのか。その方法がどんなで、どの道具立てはどれほど確かで、そんな自分がどれほど世とアナタにとって有用であるのか、そしてどうチャーミングか・・・知るかよ、そんなもん。

そういうことです。

するととたんに、自分に関して語るべきテーマが、もうほとんどなにもない。今目の前にいて、語っている、仕事をしている、歓びを感じたり不満を言ったり言わなかったりしているのが僕です。それ以外には何も持ち物はありません。どうぞよろしく。と。そういう境遇に陥ってしまう。どう着飾ったところで、そもそも最深部にある理屈が「なんとなく(適正と思えたから)」とか「当然(あるいは偶然)そう」だから。これは明確に端折った言い方ではあるけれどでも、人との会話には時間的な制約も条件の一個として必ずありますから、そのようにしか表現できない。手短に編集をかけることは、誤解を呼ぶか、嘘になる。

そこの無理を押して強いて発掘現場の雨避けのブルーシートを剥がして底のほうにある複雑怪奇の埋蔵品を開帳すると、だいたい必ず、世界観とか人間観、職業観やの、哲学みたいな内容に踏みいってしまうことになる。自分自身それについて思い巡らすことは全然嫌いじゃないけれど、これを咀嚼して言葉化して全く別の生を生きた相手方へ伝える、まして先方との共感にたどり着くというのは至難の業であるし、とうてい一言で収まりをつけようもない。
そのことが解っているし、なにより聞きたがった相手こそが「場」と「時間」と「期待した答え」の狭間で困惑するだろうという予測は容易に立つ。それなので、それを口にすることをできるだけ控えるのだけど、それでもなおという状況は極たまに、ある。

この、極たまに、に実際語りを始めてみるとまあだいたいにおいて事前の予想通り「〜観」は足並み揃わず、容易に何を話していたのだかすらもよく判らないような、路頭に迷わせてしまう感じになる。ちょっとした遭難状態。
そのようになってしまうことも経験的に織込み済みなので、実際にそうなっちゃった場合には「で、話を元に戻すと・・」という方法で、こちらから気を利かせてリセットをかける。リセットまでのリミットは長くても5分。5分も道に迷わせたらダメでしょうという判断。無理押しして話し始める時点で、このリセットボタンをテーブルの見えやすいところに出しておいて予後の経過に注意を怠らないので、だいたい本気の遭難事故になる前に済ませるのだけど。

そういう僕から見てると、まあ世の人は確りとよくしゃべる。簡潔に、手際よく、立派にしゃべるのであるから、そのことに憧れるし羨ましく思う。この点で、自分はとんでもない能なしなのじゃないか、もはや記憶装置なり情報体系化の系統になにかしら器質的な故障でもあるのじゃないかと、割と真剣に心配になることがある。
でも、まあそれは個体固有の特長、俗に言う個性だと、努めて前向きに考えるようにしている。そう努めるのも「なんとなく(適正とおもえたから)」なんだけど。

市場的にいえば効率よく消費されるにはそれと判りやすいアイコンでなくちゃいけないという側面は確りおさえつつも、個として格別に語るようなことは何もない。