物事はある程度先回りして考える。そのうえで、実行に移る。たとえば仕事のパートナーの力量を見立てて事前打ち合わせを手厚くしておくというようなレベルから、購入したベッドが部屋に入らないかもしれないから事前にサイズ計測して設置をシミュレーションしておくというレベルから、あるいはおならをしたら隣の人は不快になるからそういう無粋はよそうとかそういうレベルまで。
なるべく先回りして、成功と失敗の要因を見極めて振る舞う。そのようにして過ごしてきたのだけど、これの弊害に気がついた。弊害とは「気疲れ」。この気疲れが、自分で認識してる以上に深刻化してるのかもしれないと、ふと、思った。先廻って考えることの悪い点として、次のようなものがあるとおもう。先回りしてるせいで、他人の失言に気がついてしまう(ナイーブすぎるし、それを察した相手も緊張する)。先回りしてるせいで、他人のやろうとしてることの失敗の可能性に気がついてしまう(余計な世話を焼く)。自分の行動を頭で統制してるせいで、思い切りが悪い(逡巡と遅延)。どの挑戦にも失敗のシナリオは描ける。そのため妥当なはずの言動までも阻害される(俗に臆病)などなど。
そんな具合に色々と面倒臭くなる。安全のために支払うコストとしては先回りの思考は悪くないのだけど、でも先回りして描くシナリオに自分自身が追い込まれてしまって、生き生きとしたライブ感が損なわれる弊害はあると思う。もちろん失敗をすることと、その痛手を負うこと、さらには現状復帰することの手間・労力とくらべたら大したコストじゃ無いのだけど、これもそもそも、実のところ頭で考えるほど失敗という現象は起こらない。というのが世の常。頭でこねくり回しさえすれば失敗の事態は常にそして容易に産み出すことができるけど、でも現実の社会では親切な人も注意喚起してくれる人もすごく多い。万が一迷惑をかけてしまっても許してくれる度量のある人、耐久力のある人はすごく多い。ほとほとアンラッキーでまんまと失敗の事態が生じても社会的セーフティネットや救済が無いわけじゃない。そういった社会の善な特性のために、事柄は上手くいく場合の方が割合として多いはず。というか失敗ってほとんど防がれることになるはず。であれば、なんでもんかんでも自力で、なんでもかんでも先回りして、失敗を考えて行動を自重するその意味というのは、実は思ってるほどには大きくはないのじゃないだろうか。そんなことに精神的負荷を割くくらいならば、日常から僕はバカで不注意ですよーいざというときは皆さんが頼りですよ、と喧伝してるほうがリソースはよほど軽微で済む。
つまり、そんなでもない実りのために、多大な思考の負荷を常態化させてしまって、肝心の時にクリティカルシンキングできない状態に陥っている、そしてライブ感を損ねて灰色な気分を生きていることにどれほどポジティブな意味があるのかというと、もう、これはダメ。仮にどんなに周囲から賢いとか、聡いとか評されても、または持ち前のリスクヘッジ能力を頼りにされたとしても、それは負の好子。真に受けてはダメ。注意深い人格だという風に理解されることはあっても、それはそれだけのことで、その注意深さのために感謝をされることは無いし、感謝を求める意味もない。そして仮に得る物は行動の量と比例するとすれば、得る物もまた小さい。
なのでできるかぎり気疲れを背負わないように、できるだけ先のことを考えず、誰を傷つけることも憂慮せず、当たって砕ける方向に限定して頭を使うようにしたい。それで失敗の憂き目に遭い、周囲の人からの心ない誹りを受け、なおかつ誰も助けをさしのべてくれなければ、そのときは失敗を運命として甘んじて受け入れれば良いのだとおもう。
アントニオ猪木も言ってます。