企画は企画。実行は実行。それぞれの担当者は、別々がいい。旧態依然とした考え方ぽいですけど、今改めてそのように思います。

そう思う理由は、企画は企画の頭の使い方がある。実行は実行のスペシャリティがある。というだけです。もっと平たくいえば、事柄の性質がちがう。性格の向き不向きがある。ということ。

企画と実行とを分けることで結果的に、短時間の内に手間暇の効率よく質の高いものが仕上がります。反対に企画と実行をごった煮にすると、企画者は不慣れな実行をしながら延々企画の練り直しを続けてしまいますしそれは実行の方角をしょっちゅう転換することになりますし、進行管理や手順の粗末さから、目標の達成や品の完成は期待しづらくなります。
またこれと逆に、実行者が不慣れな企画にあたるということは、ともすると最初から市場に提示する値打ちのない事案を起案してしまったり、そのため協賛の面子が整わなかったり、ひいてはしょうがないから創作物かなにかをしながら時ばかり流れ人件費分のコストがただ垂れ流されたり、後期においてどうしようもない状況で渋々品をリリースして、もともとあったブランドの低下を招くなんてこともありえます。

で、それが何なんだということですが。
確かに、物作りのスペシャリストからしたら、面白い、格好いい、素晴らしい、優れたものを作っているのはまさに自分たちなんだという強い自負を持つのは判る。判るのですが、それはそこの領域のスペシャリティなのであって職能の枠の外にある餌場と餌までも自分の手柄だと主張するのは少々欲が過ぎるんじゃなかろうかということがあります。技術と感性の公表の場というのは、誰にとっても、偶々ある授かり物です。
逆に、企画のスペシャリストからしたら、鋭い視座で、広く受け入れられる、新しい企画を発起したのはプロデューサの私である、という自負が多分にあるのは分かります。が、だからといってお前一人で何かが出来上がるのかい?といえばそうではないし、どれほど必要性が高くてもコードの一つすらも手伝えないのでしょう、と。プロデューサというのはそこの領域の中で、永らく住人として生きてて、たまさか掴んでみた紐のその先に大勢の観衆がひっついていたただそれだけのことですから、分を弁え、他者を信じることができる人格が必要です。

企てることと行うことは互いに支え合う隣り合わせの隣人同士ですが、その中身の性質は全然別の事柄ですということ。で、こういう全然別の事をしている隣人同士が異常と呼べるまでに憎しみ合うシーンといえば経営者と従業員です。

僕個人は巷で言われるブラックのことについてそんなに詳しくなく、また体験としても乏しいのですけども。よく言われているとおりに、従業員がしこたま残業と徹夜を繰り返さないことにはどうにもこうにも定める売上が達成されないような状況があるのだとしたら、そしてまた経営者という勤めが胴元(銭勘定と配当支払い)の勤めとは区分されている事柄なのであるとすれば・・・です。

企てとして、独自性も社会性も未来観もなく、ついぞ聞きかじった情報か、思いつきか、誰かにそそのかされてか、偶然にそこの市場を選択し、成長過程において R&D の資源にケチり、市場の動向をただ静観して、シェアを落とし、価格競争に陥り、あげくに代替品まで登場し、消費者ニーズすらも失われ、もはや生産の意味もなく、好き頃合いの売却と組織の存命を思案するでもなく、只ひたすら、あーあもっかい過去の賑わいがやってこないかなー、あんときゃ好かったよなあ、あんときみたく盛況でないのはきっと実行者どもが昔程には頑張らなくなったせいなんだな、よし!決めた、最近のナマケモノの彼奴等にはこっぴどく叱りつけて死ぬほど労働させて銭を儲ける苦労というものを改めて思い知らせてやらなくてはイカン、いっそこれは親心というものだ、オレは嫌われ役を買って出てやるんだ、そうすることが結論従業員どもの暮しを守ることなんだ、下々の従業員たちは気づかないだろうがな、という経営という特別な立場、胴元という利権故の思想が漫然と横たわるあるのであって。本来あるはずの、企てと行いとは互いに支え合う隣同士という幼稚園で教わる系の知識を、どこかに忘れてきた感じがしますね。

こういった思想に抱かれて、さてここで実行のスペシャリストたちが言われるがママに血反吐を吐いてはいてはきまくって、一体全体何がおこるんですか?どういった社会的な成果効果が生まれますか?というと、世にとって既に必要性に乏しい製品商品、値打ちの低い商品サービスがたくさん倉庫に並ぶんでしょうね、ということだろうと思います。
企て側で、売れてしかるべきと信じ込むところの商品在庫が、文字通り腐るくらいに、生産されてうずたかく積みあげられるわけです。そうして売れる「はず」のものが売れないという事実に直面したとき、やはりそれは従業員が悪い、わけですね。もとい、従業員が悪い「はず」なわけですね。とにかく売れる「はず」の物が売れないのですから、実行者どもが悪い「はず」なのです。
しからば、なんとしてでも売らせてやる。怠慢はゆるさん。知恵を使え、汗を流せ、泥をすすれと耳障り指数ギリギリのフレーズで従業員どもを責めたてるんですかね、おそらくは。あるいは、オマエ等など給料を支払ってやる値打ちがない、と人件費を最低限度まで引き下げるのですかね。でもそんなことをしたって意味などなくて、実態として商品・製品へ No! を言ってるのは市場なんであり、それは要素としては一人一人の消費者であり、小売各店りであり、流通なんですね。反対に、ですよ。どうしても欲しい商品が、ある程度手の届く値段で陳列されていれば、消費者は列を作る。その程度の消費欲というのはある場所にはあるという事実がありすぎるくらいあるわけですから。そして昨今行列の出来るどうしても欲しい商品とうのは、往々、イノベーティブな商品なのであって、イノベーションを生める|生めぬ、の責任所在は概ね企て側にあるべきです。

で、こんなヘンテコリンな感じになってしまうそのずーっと以前、十数年から数十年の過去に、いったいぜんたい何が起こってたかということに想いを馳せてみます。
最初の一発目のくじびきで偶然多数の観衆や大勢の期待を引き当ててしまったプロデューサたる経営者、これが爆誕してしまったということがあったろうなとおもいます。ちょっとした寵児です。神童の大人版。
砕いて言えば、起業と事業を軌道に乗せるという成功が、あたかも立ち上げ人の能力によるものであり、彼には素晴らしい才覚があったのであり、その才覚には高い再現性が期待でき、また才覚をもってすれば他ビジネスへの転用も十二分に可能であり、まさしく常勝軍の旗頭であるという周囲の人間の信じ込みが爆誕しているとも言えます。
この思い込みを一般化する、その後ろ盾にあたる情報は、初回のくじ引きの勝者という事柄が源泉なのですが、初回のくじ引きという行為は、例えば、先代から事業を継承した場合だとか、生まれつき資金か或いは信用がふんだんにあった場合だとか、非常に良い教育を授かったとかいうのが、割合としては相当を占めると思います。(無論まともな教育も無く、また信用も金もないサラサラの更地から単身、もちまえの才覚一本で勃興した事業もあることでしょうが、ここは割合の話として。)
で、このシンプルな初回のくじ引きの成功が、人物や環境や事柄が、程なく尾ひれをつけ派手に装飾されてゆき、もうそもそもの実像が皆目よく判らない感じに隠蔽され神がかっていくのですが、まあそれはそれで、大勢の人間が纏まり三角形になるのには、とても都合がいい現象です。
それら自体を否定しようという考えは無いのでそうはしませんが、ヘンテコリンの今を産み出す原因とを探るという点でいうと、当時と今で状況が全然違うのに、当時の気分をそのままを引きずって生きてしまっている、当時の才覚らしき物の有効性を未だ否定し切れていない、ということが一個根源にあるんじゃ無いだろうかというのは推察できます。

装飾は必ずしもヒエラルキーの天辺の人による意図的隠蔽という能動的なとり組みじゃなくて、少なくとも卑弥呼の時代から、概ね大衆というのはセレブが好きであり、セレブを祭り上げる行為が好きであり、何故セレブと祭り上げが好きかと言えば、彼との繋がりが自分にとって好都合な餌場となる予感がするからです。
この真の欲求であるおこぼれに預かりたい気分が、自分自身惨めに思えるせいか、はたまた餌場を自分だけのものにしておきたい独占欲のせいかで横並びの隣人に情報として共有されづらい側面があります。反面祭り上げる行為や賛美の言葉、演出された情報はなにか隣人と共有しても差し支えの無い伝播しやすい情報であり、だから祭り上げ情報だけが一方的に蔓延し、それ故、賛美を耳にした誰もが彼を担ぎたくなってしまう、という何かねずみ算的な演算が成立してしまいます。これは決して知的な活動ではありませんが、さりとて生き物と大衆の特性上、仕方のないことです。火事場を見(てやり)たい気持ち、事故現場を見(てやり)たい気持ち、そのネガティブな気持ちを持ってるのは自分だけじゃ無いだろうという弛緩した気持ちを封じる術は、今のところありません。
こんなようなねずみ算が世に言うヒエラルキーを産み出す原動力としてあって、人類史上えらく古代から、もっといえば人類史以前から、まだ「形振りを構わない」お猿さんの頃から、延々行われてきた効率の良い餌場の確保方法だろうと思います。やれ実力主義、やれ成果主義と盛んに言われる現代に至ってすらも、人間はこの手法に乗せられることが大好きですし、むしろ脊髄レベルで本能的行動として定着してるみたいに思えます。

ですから、華美な装飾による事実の歪曲は、ヒエラルキーの頂に立つ者がそれを能動的に行うかどうかということじゃなく、むしろ第二、第三の層にあるコバンザメたちが率先してこれを行いますし、さらにその下層に至っても、彼の人物はたいそう偉い成功者「だそう」だから、よっぽどの人徳をお持ち「であろう」から、その背中を見習おう、彼の本を読もう、僕もいつかああなろう、君も見習いたまえ。。などと自由奔放な再歪曲が蔓延しやすい、殊更、組織づくりにとって優れた認知の構造であるわけです。でもどんなにそんなことを願ったところで、見習おうにも、両者の間には越えられない溝があります。最初のくじ引きの機会など無いのです。真似など及びもつきません。だからいっそ真似など望むよりも、別の環境、別の生き方、別の役割の果たし方、別の幸せについて思案するのがよほど合理的ですし、まず別の生を生きてるそのことを認め合うのが、多様性を認め合うということです。

話を元に戻すと、まあ、とにかく初回のくじ引き来、特段業界に新風を起こすとかそういうこと無く、粛々同じことをやっていたらライフサイクルの下降曲線の時期がやってきて大量の不良在庫を倉庫でうずたかく積み上げることになってしまいました。好景気の頃には、生産が間に合わず、ラインの人間を過労死させてみたりすることもありました。不景気で、倉庫が満杯になれば販売の人間を首つりに駆り立てるなんてこともあります。全部が全部ではありませんが、そういうことがちらほら報道で表出する感じになります。

いったいぜんたい何故、そういった類いの過度が起こるのだろうか。

企て側からしたら、全体を守らなくてはならない責任感による所行かもしれません。
全体を守る。そのために個々に発破をかけてやる気を出させる、際の頑張りを乗り越えさせる、結果それが人間成長に繋がるのだという理屈を思いつくかもしれません。あるいは単に、各人の人間としてのの生存欲求が機能しなくなるくらいに、個人の思考に追い込みをかけるのかもしれません。この辺の真意は永遠に謎の域を出ることはないと思えます。(認めたらアウトですからね。)
実行側からしたら、三角形への忠誠の証なのかもしれません。
三角形の中で承認欲求が満たされる/あるいは満たされないというのは、社会的生き物である人間にとってそもそも、ことほどさように死活問題ということがあるのかもしれません。或いは職業人として一段下りるだとか、住むべき共同体を別の場所に見いだすということは、人にあらざる行為と定義されてるのかもしれません。または最後の最後の瞬間まで、自分こそが個の共同体の中で最高の人間だと言うことを証明したい、そのために苦境を歓迎し苦境に耐えるのかもしれません。

が、そういうのは知っての通り、全然健全じゃあないですね。いっそバカみたいです。
企てがやらなくちゃいけないのは、元気のある市場に出て、売れる製品サービスを企てて、このためにやれることをやりましょうよ、というのがまず第一に自然です。
なにかの事情都合で、どうしても市場に見切りをつけることができないのであれば、そこはそこ、この市場が元気を取り戻すための企てをするのが自然という物ですね。でもどうしても今の製品が捨てられないのであれば、それはそれ、この製品機能の別の形での利用方法なんかを企てて提案してゆくのが自然です。
これら企ての実務を拒否すると同時に、この債務を実行者のせいにする、預かり受けた人間を契約で縛り付けて、辛く悲しい気持ちにおいやり、場合によって再起不能にまで痛めつけたり、場合によって死に至らしめる、ということが未だ余裕綽々まかり通るというのは、人間社会の未開拓ぶり以外の何でも無い気がします。

何か事業が上手くない。すくなくとも昔より上手くない。そう感じたときに企て側がとる建設的な行為というのは、大いに外れるかも知れない、そしてそのことによって従来言われてきた伝説的な人物像や名声を崩壊させる原因と背中合せの行為なのですが、素直な気持ちで二回目のくじ引きの場に立つということだと思うのです。けど、どうだろうか。そうは判っていても、どうしても座を失うことが怖ければ、別の運の良さそうなやつにくじを引かせるというのもまた、不自然ではありません。

また、実行の側は側で、組織内でのちっぽけな評価制度の言うなりに成って、若手にポテトフライの揚げ方を教えないみたいなケチな人間に堕ちてやしないか、果たしてオレのポテトの揚げ方は最高の物なのか、もういっそポテトはロボットが揚げるのだとしてら、次は何にスペシャリティを移行するべきなのか、最新の技術、最高の感性って何だろうか。自分が最高で無くても、最高のプロダクトのためにできる役回りは何か、などテーマは腐るほどあったりします。なににつけ、物の品質が市場を動かすという事態は、其れ自体がとんでもないミラクルなんであり、そうそう起こることじゃないのであまり自らの技量に期待値を詰め込みすぎてはいけません。自分の技量が足らないから、市場が動かないなんて尊大なことを考えたら、身内に足下を掬われてしまいますよ。まず間違いなく。

で。だから何なのサ、です。

企画のやつは企画なんで、実行を判る、できるという勘違いはいけませんし、百歩譲ってそういう風に思ったとしたところで、そんな考えを周囲の協力者や実行者に気取らせてはいけません。また企てることをサボってはいけません。また企てのあてが外れた惨めな結果から逃げてはいけませんしあろうことかその逃走中の身にあってなお能力主義とか成果主義とか他責はけしからんとか立派なことを口走ってはいけません。天に吐いた唾を1,000倍くらいの濃度にしたものを全身にベッチョリ浴びたいというのなら別に止めはしませんが。
また実行のやつは実行なんで、自らの技量を発揮できる企ての中で、技量の商品価値化が実現されてく歓びを満喫したらよいので、強いていったら金に目がくらんで「最初から妙」な企てには荷担しないという誇りが必要なんだと思います。その程度の選択の自由だったらいくらでも許されている気がします。


考えてるつもり ――「状況」に流されまくる人たちの心理学