Mubz snap 寂しい

そうかそうか。そうですか。世の人々が言う寂しいってのは、こういう気持ちなんですか。なるほど。というわけで、弱い感じのことを綴ってみます。
だいたいからして難しいですよね、人の世は。特に過去に比べて、今時の世は。過疎の地域では人間が必要だといって、介護の現場にはまだまだ人でが足りないといって、それでもって恐竜みたいに巨大な大企業では人は必要でないリストラだといって、物が売れないといって給料が下がり、給料が足らないといって物を買わず。公費が足らんと言って大増税を行う、と。誠に大変な時勢です。
気取ったスーツを一皮ひん剝いて、すっとんとんの素っ裸にしちゃえば、誰独りの例外無く人間一人ひとりはそこはかとなく寂しいってのに、ネクタイ一本キュッと首をひっくくってそして札ビラを仕込めば、途端に選ばれし者のように自己認識を逸脱して、考え振る舞ってしまう。そうしてズラした自己認識を機会とみて、有象無象がワラワラと身辺に湧いてきて。この有象無象を、勘違いした自分ではなく金に群がる云々と間違い、五月蝿く思ったりして。この五月蝿さの直中に身を浸して元来の逃れられない寂しさのことを忘れることのできる者もあれば、五月蝿さの直中でよりいっそう際立つ底の無い寂しさにより一層捕われる者なんかもいたりして。
本当に、ほんとうに、ややこしいことです。

金儲け至上主義以外にはまかり通らぬ世の中で事業と金とに向き合えば、やれ市場が欲しい、やれ能力豊かな人材が欲しい、やれ忠誠心が足りない、やれ努力が足りない、やれ結果主義だ、競争だ、隣の席のアイツさえ消えてくれたらと。誠に知性白濁で乱暴な他人頼みの欲深い考えを恥ずかし気もなく、否むしろそれが立派な社会人であるといわんばかりに絶叫してるわけです。で、あまりに安易に、どれくらい安易かというと帰りの電車でクルリ人格を入れ替えられるくらい安易に、まったくもって同じ脳みそであることが信じられないのですが、家に帰れば皆が皆つきなみに家族親戚を慮って、子・孫の健やかな成長を願うわけです。良き家族人として善きサマリア人の演技をして(あるいは外でのキャラがウソであるというウソをついて)時を過ごしている。なんでしょうね、週末にはお肉たくさんバーベキューでも催しますか。返った頃には既に寝た子の頭を撫ぜますか。ついさっきがた同僚を突き落とすメールを書き、上司に胡麻擂りをし、部下に罪をなすり付け、セクハラを働いた、まさにその手で? ウソでしょ。

といった風にです。そういう生々しくも人間らしいような、はたまた全く度し難い人でなしのような、どっちにしたって未完成な往かれちまった成員たちの集合体を組織とか社会とか会社とか部署とか共同体とか村とか、最悪仲間とか、呼んで我々は何食わぬ顔で普段を暮らしているわけです。
そしてその成員たちというのは、あたかもその集合の中にいることが許されるボーダーラインがあるかのような面持ちを満々と湛えて、俺たちの仲間になりたきゃ何を約束しろだとか、仲間はずれになりたくなきゃ何を寄越せだとか。ろくでもないことを平然と他人へ求めてくる癖がありますな。そうすることによってこそ、あたかも自分ばかりはいつも集合の中央値であるような、それに自分以外の成員たちというのは部外者なんてのは、レベルが低くて欠損だらけで、あるべき姿からほど遠く分散の彼方であるような風評ばかりをばらまいて、自分ばかりが常に真ん真ん中たる中央値であることを証明することによって暮らしを得られるとばかり考えるわけです。俗にいう保身、ですか。共同体の中での保身に全力で邁進する。どれくらい邁進するって、それが中央値と言われたら棒状のチョンマゲを頭にのせることくらいは涼しい顔でやってのける。それくらいに邁進する。そうして共同体そのものを慮っているのだという自分を背一杯演出する。
これが本当に霊長類の中で最も有能であるはずの種のする行いなのかと、ただ驚くばかりなのだけど、このクソ驚くような事というのが本当の本当、目の前の現実として起っている。これが冒頭に言った「世」の難しさ。現実という圧倒的な力にねじ伏せられて、ウソでしょって思うような所業が、本当に、回ってしまっていて。いったいぜんたいなんなんでしょうね、この、おそらく極一握りの人、国内で見て下手したら万にも満たないほど小さな数の人以外は望まないであろう、世の仕上がり具合。

卑近な例でだって実際のところ。子や孫に残す財産はたくさん残しておきたいが、そのために、当の子や孫が明日の仕事のことで憔悴しきっているなんていうのは、どう取り扱ったらいいんだろうか。この最たる例で言えば、金なんていうのはただの道具だよね、というようなことを唱える人物は大勢、きっと過半数、居るけどそのただの道具によって振り回されることを辞めようとする人間の数はとなるとほとんど無い。脅威の転換率。人間というのは、たかが道具によって、その行動や判断を大きく変えるということが往々にしてあるので、道具をただの道具として片付けてしまうことは、恐ろしい思考回路だと思う。

実際のとこ。よく引き合いに出されるネタなんですが、各国の自殺者統計を見ると、2012段階の最新データ(http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html)で、日本の自殺者割合というのは10万あたり24.4名にも上っていて、これは調査対象国の中でワースト8位入り。日本よりも自殺率の高い国というのは、ワースト順にリトアニア、韓国、ロシア、ベラルーシ、ガイアナ、カザフスタン、ハンガリー。そして日本の順。先進国中、あるいは経済大国中という視線で見たら、もうあり得ないほどの高い数値。ちなみに、米国は42位(10万あたりで11名、日本の半分以下)、英国は59位(10万あたり6.9名、日本の1/3)ということ。
なにせ死というのは、人間が選びうる選択肢の中で最もコンバージョンの低いアクションに違いないです。また、そうでなくちゃならない。少なくとも、ネットショップ運営で広告接触からの実購買アクションまででコンバージョンが 0.05% ですね、とかそういうのと横並びの次元にあってはいけない重いことなわけです。ところが、データを見ると現に 0.024% に達してしまっている。この死へのコンバージョン率の高さはなんなんでしょうね。5000円以上で配送料無料じゃねーぞ、と。
まあこの問題の解釈はきっとすごく難しくて、国民性、民族性、国土風土、文化、思想、政治、宗教、哲学、歴史と関連しそうな要素の枚挙にいとまがありません。すくなくとも、なにも経済の問題だけではない。
がしかし、なんだか子供のころから僕らはこの国は和の国だとか教わったように記憶しています。まあこの体たらくですから記憶違いかもしれませんがそう教わった気がします。でもここでは、子供たちが選抜されて、同僚同士が競い合わされ、会社同士が市場の奪い合いをしてて、金の流れる血脈における大動脈はオレなんだという種類のことばかりがいつもいつも優先順位第一位です。
このメカニズムのどこにいったい和のテイストがあるもんか。もうきっと誰に和の風味はよくわからないことでしょう。従来和をひとまとめに担保し得た唯一にして巨大な美点、なおかつ半自動的な装置として機能してきた一大経済成長(簡単に言えば棚ぼた的に生じた追い風のこと)も今はもうすってんてんです。最近産まれた子たちは、下降する曲線がデフォルトの認識であるはずです。「経済って成長するなんてことがあるの?」と考えるのが基本です。
在りし日に、とある理由によって発明された既存の物品を、一回り小さく作り替えて付加価値を高め輸出する。そういう種類の「ものづくり」の腕前は日本だけの得意技では、もはや、ないわけです。もっといえば、そういうことが日本より得意な民族は数多あったということが今まさに証明されているわけです。モノを小さくするとか、薄くするとか、軽くするとか、そういうことに邁進するあまり、というか正直に言って慢心するあまり、もっとも肝心である「発想する力」はもう全部、のきなみ全部が、アニメと村上春樹の中に封印されたんじゃなかろうかと思います。魔封波!

たとえ野球なんか経験していなくても、金属製の軽量なバットを握れば自ずと振ってみたくなるもんです。ブンっと風を切ることができるようになったころには今度は何かを打ちたくなるもんです。実際に球を打ってみたら、こんどは遠くまで飛ばしたくなるのが人情です。
ピストルをもてばきっと撃ちたくなるし、撃った・当てたという実績は気持ちを強くします。強い気持ちは傲慢をもたらします。金をもってば気が強く傲慢になります。今、目の前にある他人のことなどを慮る必要は何もなくなる。目の前の誰が悩んでいても、バカにしか映らないようになります。なぜならば他人を慮るということはそれ自体が自分を社会につなぎ止めるために支払うコストであり本来的な道具だからです。でもそんな道具は、金さえあれば、要りません。金が、人を社会につなぎ止める代替機能を持ってるのだから。それだから、あまりに金があふれる世の中では、個々の人はのきなみ傲慢になります(じゃ金がなきゃのきなみ謙虚になるとは言いませんが、支え合わないとやっとれん、という意味で相互を意識せざるを得なくはなるでしょ、たぶん)。
あまりになんでもかんでも金で代替が効く世の中では、慮るという道具立てなどの所謂「人間性」と呼ばれる特性は薄まり、
人間そのものか人間関係かが、一寸前まであったその形よりも歪になるに決まっています。

そうやって、数十年かけて豊かになって、数十年かけて歪になって、そうして追い風が止んで、爺婆の面倒を公的に押し付け合ってる。介護需要が旺盛ですとかいう立派に聞こえる公な言い方で紛らわせて、身もふたもなく低下しきった僕らの人間性を覆い隠してる。大変だな、大きな政府の運営ってのは。この状況にあっても、それでもまだ「新しく誕生してしまった現実」に目を伏せて、この数十年で歪になった自分を認めずに、矜持を取り下げること無く、維持・尊重しようと頑張っている。形の変わってしまった人間性のその周辺ばかりが空洞化して、あたかも原発事故の半径10Kmみたいにそのまま保全されてしまって、結果問題が問題であるが故に幅を利かせて、殆どのひ弱い個人はただひたすらに自分ばかりの勝ち逃げを金という道具立てにのっけてその獲得を目指し、勝ち逃げが見通せた暁には馬なり先生としてこの栄光を得たのはカクカクシカジかのマインドであったのだ・・と懐古主義的に華を咲かす。または、この豊かな国で生まれた幸せな若者たちが夢を失っているとは何事か?と威勢良く憤る年寄りも多いのだとおもう。が、そういう翁たちは、反対に、金と物さえ豊であれば、人を人と思わず、家族を持つことが難しく、他人を頼ることが許されない、お互いを認め合えないこの環境であってすらも未来と幸福とその他欲しいものはなんでも金で買えば良いという想いでものを言っているということなんだろうか。もしもそうなのだとしたら、相当ロックン・ロールな人生観だことで。裕也よりもロッケン・ロールだことで。
大まかに予想して、公的共助は絶望視され、自然的共助は崩壊し、自助もままならない。産業はといえば、ものを小さくすることばかりに時間を費やして、小さくする=優秀という画一的な価値観を生み、その末ほんとうに値打ちのある創造性は養わるどころかむしろ出る杭として打つ風習を常態化させて、それでもって若者の引きこもりを壮快に叩き、じゃってんで若者が仕事をしたいと願い出ればかえって迷惑面で追い返してしまう、文字通り万が一経済活動に参加できたとしてもそこはそこあいつをコロスが自分がシヌかで。
そういった場を出来上がった社会システムとしてこの先の未来を生きることが今年 20 歳の、あるいは今年 18 歳の若者たちに呈するテイストは、果たして彼らに理解できるだろうか? それはきっとほろ苦いじゃ済まないと、僕は思う。

そんなような塩梅で。世のあり方は定まり、圧倒的な現実に押し流され人間性の根っこを失ってしまった砂の数ほどある歪な人たちの狭間で、この抱える違和感をごまかしながら、比較的若い日本人は今を過ごしているのだとおもう。今日より良い明日ではなく、昨日よりは最悪じゃない今日を。もうさ HAL9000 に統治を任せたほうが、人間性の観点から言っていまより幾分かマシなんじゃないの?


物語 哲学の歴史 – 自分と世界を考えるために (中公新書)