オンラインでマーケティング丸出し、なサービスってどうなんだろうなあ?売らんかな丸出しの活動ってのはどうなんだろうなあ?

ここ最近 Web だとかもすこし広くいえばデジタルだとかが、暮らしの中で接点が増えてくるにつれて、そういう風な想いを深めてる。ちょっと辟易。

辟易の根源は漠然としていて一個これという対象があるわけじゃないのだけど全体的に疲れる。目立ったところだとツイッターとかフェースブックとか、スマートフォンとかがもの凄く一般化したこととそれにともなって過剰なサービス狂騒になってる感じなんかが辟易の袂にある一個な気がしている。
もっといえばそうやってインターネットのデバイスなりインターネット上のプラットフォームが消費者の間でごくごく一般化することによって、とある業界業種の界隈で Facebook や Twitter はマーケティング・ツールなんである、いやもはやセールス・ツールなんであるという説をぶち上げる人が出てきたり、またそういうのの向こう側に幸せがあるような演出によってお金を稼ぐ教祖みたいなのが降臨してしまって。なんとはなしにだけどそういうのって、なんだかなあ・・個人的には嫌いだなあ・・って皮膚感覚的にだけど拒絶感を禁じ得ない。

たとえば一寸前に仮想現実というのがあった。ARとか呼んでたっけ。これはたしかスマホの普及と同時期にマスコミを通じて一躍一般にも知られるようになった技術だったとおもう。で、これが今どうですかっていうと、全然使われてない。一般消費者も使ってないし、従って、この技術こそがコミュニケーションであるという説をぶちあげる事業者もほとんどない。当時は町中仮想看板だらけになりますだの言ってたはずだけど。そうはならなかった。

まず先に技術があって、その技術の活用用途が示されて、一時的に注目を集めて、だけども僕らの暮らしにはそれほど重要でないという漠然とした結論が為され、次第に技術の存在が一般の記憶から忘れられてゆく。または「在る」ということを意識しなくなってゆく。個人的にはこれくらいの温度感がちょうど好ましいと思う。また、本来、それくらいの温度で済ませるべきものばかりだと思う。
だから願わくば。もう数年経った後に Facebook のことも Twitter のことも LINE のことも、AR みたいに皆忘れてしまったらとても好いのにと思う。やはりそれくらいの温度が自然らしいし、それくらいの温度でないとこっちにとっては熱すぎて接し続けてられやしない。辟易。

くれぐれも言いたいのは、なにか情報と技術に由来する新しいサービスが一部の特別な人たちのものであって欲しいなどと願うということではない。そりゃそりゃ、技術というものがサービスの衣を纏って一般に広く浸透し、便益をもたらすのはとっても素晴らしいこと。技術が万人のものになることは大賛成。だけど、サービスが、なにやら特殊でファッション的なものとして位置づけられて、そのために必要な分を大幅に上回って熱狂的に加熱するということはご勘弁願いたい。だって、ほら、熱いから。

そもそも技術が一般のモノになってゆく行程を思えば、消費者っていうのはこのクソデフレの中で、無くても死にやしない程度の技術を購入するためにかけがえの無い現金を払って、時間コストまで支払って、テキストかなにか入力する作業量を増やして、そうやって普段の日常を少しずつ小忙しくして、そうやって技術と関わりをもってる。
で、この獲得した技術との関わりや活用が、たとえばテレビを観るだとか、電話をするとかだとかのシンプルなことであるならいざしらず、よりにもよってソーシャルネットワークみたいな複雑なものだったりして、大方の人間は規約なんかまず読まずに利用していて、また更に元々面倒な人間関係がさらにややこしく煩わしくなって、ともするとこの情報技術に関わりさえしなければ知らずに済んだ他人の暮らしや思想のことを知ってしまい、場合によって他人の暮らし生き様を羨ましく思う負の情緒さえ背負い込んで、なにくそ負けじと時々刻々とやれ何を買ったかだとか、どこへ行っただとか、何を食べてるだとか、どこに居るよだとかで自分を豪華に演出するようになってって。そうして自分を立派に見せたり、豪華に見せたり、気さくに見せたりするその演出に夢中になってみたり、あるいはその取り組みに失敗してたとえば犯罪自慢というような若気の至りを冒してインターネットならではの拡散力だとかデジタルならではの保管能力により炎上騒動になってしまったりもするわけで。
わざわざお金を払って、技術をなまなか理解して、他人の暮らしを覗き見して、自己演出に熱中して。
そういうのって、なんか、望んでたのと違う。というより、そういったことの事前から決して望まなかった方角へ、茶番へ、大勢が一斉に確実な足取りでギャロップ。

消費者側に起った上の状況に加えて、技術の一般化ということに着目してソーシャルネットワークなりスマートフォンなりを一種の餌場と見立てて、大小の、内外の企業がこぞって広告なりPRを一般消費者たちに向けて垂れ流す。もちろんそれは技術を切欠として行動の様式や有様模様を変えるであろう群衆の動態を予測して、効率よく魚群たる人間を煽り立てて、そして狩るため。
この一般の人が、爺や婆までもが、わざわざなけなしの金と時間をはたいて、あるいは労力を割いて、個人生活に関する情報の一部を公開までして得たその便益にすらも、IT とマーケティングの関係性に聡い利益団体や広告会社の手による広告とPR(とスパム)がモリモリと盛大に盛られて、爺や婆はこの盛られたスパムにまんまと食らいついていて。もう、最初から餌食として生かされてて呼び込まれて飼われているのだという全体模様に気づきもせずに、寝る間もすり減らして、情報処理に明け暮れて、本来かかえる必要の無い苦役を負わされているという姿が仮にそこにあるのであれば、それが醸すムードは、やっぱり幸せとはほど遠い。便益なりインフラなりコミュニケーションに金をはたいたはずが、広告の餌食になるかもしくは広告削除作業班に着任しているというテイタラク。

こういう風に感じ考えるようになったというのは、加齢に負け単にオジサンになった、ということなのかしらとは思う。それならそれでまあいいや。ややそういう帰来はあるにせよ、でも、全部が全部そうだからではないと言いたい。
大きくおおきく世界を眺めたときには、現状ではまだ IT があまり善くは使われていないし、この先についてもなかなか絶望的だというこの感触の大筋は、間違ってないように思う。なけなしの5万円を使ってまでして手のひら上でインターネットの便益にあやかりたい大勢の人たちと、そこをめがけて網を張る広告屋との間の狂騒に、果たしてどんな値打ちがあるのか。あるわけなかろう。

ただし世の中が「これからは IT だよね」と言い始めてからここまでのところ、その IT 化の速度は落ち込んだことは無いのだと思うし、言葉として加速度的が言い過ぎだとしても少なくとも、直線的に裾野を広げ続けてきているとは思う。し、この先もしばらくは従来のデバイスやシステムのリプレースとかいうまぎれなく必要な領域よりもよほど外側にあるはずのソーシャルネットワークサービスでスマートフォンでアプリケーションでマーケティング!という思惑の人たちが、身銭を切った一般人の人数規模を見せ球にして、何でも知ってるような口ぶりでセミナーかなんかして、グイグイとそのマーケティング受注を伸ばし続けるのだと思う。そこにある思惑というのは、ここ 3 年間だけ儲けきってしまえば、後は何だって構わない。そういう夢も希望も無い露骨な人種は存外多く居るものだ。

ここで話は少しだけ変節するのだけど、まあ IT どうのこうのよりずっと以前から、シェア争いを凌いでいく上で規模の経済というような考え方は明白にあって。このあたりからとっくに、ちょっとでも資本力に長じ、そのために新しく価値のある(ありそうな)ことに惜しむことなく挑戦的な投資をできる事業者が一方的に強くなってゆき、かたや細々チマチマコツコツとやってる個人商店なんかは量の争い、投資の争いのダイナミズムの前で一方的に敗北続きになりやがて廃れるというのは、認知獲得〜顧客獲得という点では、明白なわけで。これは俗にいう金が金を生むというやつで。ということからしたら IT 投資もマーケット開拓のための広告宣伝ならびに PR 投資も事業者が強者でいるためには手抜かりできないこと。競争相手より一名でも多い消費者市場を所有することが、選べる戦略のバリエーションを飛躍的に増やし、それがさらに明日の勝ちに繋がるのだから。
そういう風にして有権者たる消費者の得票を多くとれる企業だけが生き残ることができるという甚だ原始的な資本主義の潮流にあって、多数を握る事業者だけが他の競争相手たちを蹴散らかして、違法でない範囲の一強状態に辿り着く。そのことが、なにやら変に感じられて仕方がない。

それはつまり。たとえばダイビング・スクールみたいなものを例にとったとき。「ダイビングへの興味関心者を沢山知ってる・持ってる」という事実の方が「ダイビングの技術を教える、その愉しみを伝える技術を備える」ことよりも値打ちが勝る、という、そのいかにも今っぽい状態についてなんだか変な話だなあと思う。ということ。実業をやるより虚業をやったほうが、全体売上げが大きくなるということなのか。いや、いたって普通のことなんだけど、変なことだなあと。
結局のところダイビングを教えるのは免許を持ったインストラクタ 一人ひとりなんであり、あるいはサーフィンでも、スノーボードでも、ヨガでも、旅行でも、英会話でも、自然食品でもなんでもいいのだけど、 ダイビングをしたい人間を紹介する紹介元の人間が値打ちがあるように振る舞う状態は、いったいぜんたい何事なんだということ。
もっと言えば、仮にその経済合理性を前提にして、インストラクター達が全員、マーケッターに商売を鞍替えしたとしたらば、いったい誰が、客の欲しい値打ち、つまりダイビングの技術の習得だとか歓びに関するサービスを提供してくれるのだろう?あるいは、経済合理性を押しのけてなお職業に従事しているインストラクターたちは、経済をしらないアホだということになるのか?僕にはそのようにして世の中を理解する能力が備わってない。難し過ぎて解らない。

鍛錬をつんだ歌手がいれば良い歌が聞ける、農家があれば美味い飯が喰える、デザイナーがいれば気の効いた物に感動することができる。作家がいれば物語に胸をふるわすことができる。調理師があるから外で美味しい御飯が食べられる。のであって、絶対的多数の支持層を持ってる一握りの事業者があって彼らが情報を報せてくれればこそである、という風には到底思えない。
ましてマーケティング競争を、片方では加熱させ、もう片方ではより有利な最新技術がありまっせという顔を振る舞う、そういうマッチポンプは混乱を生む一方で、清然でない。

で、また、話をもとに戻す。
さあ企業のみなさん色々な情報を IT 化しましょう。そうすると可用性に乏しい紙の資料が無くなります。場所をとらなくなります。紙もインキも印刷機も棚もいらなくなります。
また情報をデータにすることで過去をさかのぼることが容易になりますし、数値化すれば尚善しで、過去と現在を比較することも容易になりますし、遠隔地にも直ちに共有できますし、大人数へ一斉に共有できます。それに書き換えだって容易です。
たとえば在庫管理です。総ての商品情報を RFID 化することで、倉庫に何個在庫が残ってるのか一目瞭然ですし、この個数をネットショップと連動することで、常に残数を最新に表示しておくことができます。そのためにはシステムとプログラムを導入することになりますが、同じ作業へ費やしていた人件費分を削減できますから、ROI は大変高うございます。
さらには、沢山のデータ、殊に顧客とその行動についてのデータを収集し解析することで、顧客の属性や購買行動の傾向が掴めるようになりますし、その理解が更なる商売繁盛を可能にします。これはとても凄いことで、購買の可能性やリピートの可能性別に顧客を区分けして、それぞれに別のアプローチをとることができるということなのです。マーケティング施策の引き上げ率たるや相当な高確率で向上しますし、たとえば DM 一つとったって無駄には打たなくてすみます、つまり大幅なコスト低減が見込めるということです。また情報の受取手である顧客一人ひとりにとっても興味の無い情報を押し付けられることが無くなりますから、ブランドへのロイヤリティが高まることが期待できますね。

とかなんとか。

君は、そういうのがやりたかった事なのかね。それが、君が生きた証になるというのかね。そんなことよりも、家族や親戚と一緒に暮らして、たまに友達と酒をあおって、たとえばマリンスポーツのインストラクターで、真っ黒に日焼けして、まだ経験していない愉しみを誰かに伝えたいし、飯屋でもやっていつもの美味しさを誰かへ提供してたいし、そういうので、目の前で誰かが笑顔になる様子を眺めるほうが幸せだと思うんですけどね。その辺りの値打ちはどの辺に勘定されてるんだろうか。

で、だ。

そういう風景に否応無しに IT というものが入ってきてさ、マーケティングとか最適化みたいなものが割り込んできて。それでもって実際問題 IT 化というのが事業の経営なり商売に効果を示してきたということになっているものだから、それでもってより早期に、より大規模に、IT 化による効率化を果たせた店屋だけが成長し、生き残りを許され、反対に IT 化に乗り遅れたお人好しの商売人(や職人や農家や漁師や医師や弁士などなど)たちが滅んでゆく。これはこれで淘汰なのかもしれないし、時代の趨勢かもしれないし、致し方のないことなのかもしれないけど、そんなことでいいのかね?逆に決して IT の波がやってこない、決してITの波に押し流されてしまわない商売なんてものはあるのかね。正直いって、あってほしいんだよな。

たとえば歌手、作家、フォトグラファー、ダンサー。そういった経験と感性と技術が商品価値のほぼ総てのような職業というのであれば、一見すると、IT とかマーケティングとかそういうのとは全く無関係に映らなくもないけれど、でも残念ながら実際には強く関わりがあって。本当のところ、広く認知(客なりファンなり)を作ること、上手く在庫をかかえる・かかえないこと、効率よく情報を流通させること。そういう手捌きが上手な方が、本業である作風や声質なんかよりも勝るということは往々ある。反対に、それらしく見せる・聞かせるための真似事さえ最低限度まかなえていれば、マーケティング力でなんとかなっちゃたりする。

何故なんとかなるか。
認知力が高くて品質の伴わない商品についての認知が、広く一般に、とてもよく浸透している状況では、その他の本質的に良い商品が注目を受けづらくなるから。人間の時間とお財布は限りがあるから、例えば3000円が入った財布から質の低いものに3000円を払ったら、質の高いものに3000円を払いたくても払えなくなる。ただそれだけ。
そうやって質の高い品が世に出回りにくい以上は、消費者としては良いも悪いも比較行為自体が成り立たない。そうして全体をグツグツと煮詰めていくと、最終的には、品質は高いがポップでなくまた宣伝が困難であったり宣伝効果が得にくいような商品なり文化は、認知獲得の面で圧倒的不利に陥って、最果てには、廃れるということが予想できる。
実際に、工芸品や職人の技はそうやって、技術というより商業システムによって淘汰されてゆくのですか。これは本来の競い合うべき戦場ではないところの戦で負けてしまったという状態ですね。まったく本意でない。

といって、別にここでポップカルチャー批判がしたいわけでもない。ポップはポップなりの努力の成果で、それはそれで生き残ってくれたらいいのだけど、その一方で、廃れていくものがあって、その廃れてゆくものには市場原理の結末です世の中金と時間の奪い合いなんです以外にこれという理由が与えられないということはとても寂しいことですねという話。手をかけ、時間をかけ、人生を費やしたような技や芸、センス、そういったものの市場価値が急速に目減りしていってしまう。代替品があるとう理由で。そういうことに、なんか違うんじゃないのかい、って思うということ。

かたや消費側の目線で言えば、すぐそこに、コンビニに、ネットに、YouTube に手に入りやすいものが溢れてるから、本質論を知るのは面倒だから、もういいやってなって、ウスペラい消費をダラダラとやって、何かを見知った気になる。まあそれもそれ。大量消費の時代なんだし悪いことてわけじゃない。批判にはあたらない。
でもなんかそんな感じでは、どこか喰い足りない感じが残るというか、満腹だけど栄養失調みたいなことってあるんじゃないだろうか、とか一寸思ったりする。安易な消費行動に走って、栄養価の低いものばっかりを時々刻々と摂取して、そこには膨満感はあるけど満足感はないとなって、それがストレスを呼んで、また意味の無い摂食行動に走るとかそういう面倒なループの中にいやしないだろうか。品性のない頭でっかちのブヨブヨした生き物になってきゃしないのか。

インターネットとか IT は世界中の人の考えや暮らしぶりを知ることのできる便利な道具にはなったけど、その便利さ故か副作用かで、商業主義の生け簀になったり、人気取りの道具立てになったり、他人への嫉みの生まれる場になったり、人の値打ちを押し下げる働きをしたり、そういう感じがあるのだとしたら、そこなんとかならないかなあ、とぼんやり思うのであります。