Mubz snap 小猿

末っ子で産まれ、玉のように大切に育てられて、十八歳で一人暮らしをスタートした。

途中、兄弟と過ごした時期もあったけど、基本一人。自分以外の人間と、時間、空間を共有することが到底肌に馴染まないままずっとやってきた。

集団行動ができないとか、学校生活ができないとかそういうことではない。むしろそういうことは卒なく、よく、やれた。(実際によくやったかといえば実はそうでもないのだけど。)ともかく肌馴染みが悪いのはそっちではなくて私生活の方。何か他人と過ごす時に違和感が強く、仮に誰かと三日間も一緒に居ると参ってしまっていた。

自分の中に違和感を抱き続けているその問題は中々困ったものであった(し同居人を困らせる問題でもまたあった)のだけど、ここ最近ようやく、雪解けのようにゆっくりと、解消しつつある。一人でない暮らしが、自分にとって好ましいと捉えはじめている。

この背景には、自分の強さ/弱さについての認識のことがありそうだしそれに、人に対して影響すること/されることを厭わない/歓びに感じることもありそうに思える。

そういった心理的な変化は、時間をかけて人と過ごして、この中で弱ったときに、困ったときに、悩んでるときに支えられたり助けられたりする経験による気がする。

一般的にも、また時代性からいっても、自分の問題を自分事として独力(だけ)で乗り越えるのはとても大切なこと。なんだけど、他の人の意見を請う、道を示してもらうこともまた独りでは生み出せなかった別の解決を導く。
自分固有のテーマについて自分ではない人にそのように処遇してもらうことで、まず第一義的に問題が解決するという産物が得られるだけじゃなく、ほとほと捉まえ辛い己自身のことが俯瞰で捉えられるという副産物もまた得られる。そして、この件に関して言えば副産物の方が意義深い。

副産物の意義は、小さく、弱く、優れていない一個人に関する残念な事実から目をそらさず正視する機会が得られるということ。またこの残念な事実をそのまま自分のこととして受け入れる器を間に合わせでもなんでも用意しなくちゃならないということ。そうすることで、自分が生きていくのには、自分を良く知る仲間の助けが不可欠なんだと、心底理解できる。

このことはまだ野心が傲傲と燃えて、過大な自己評価にまみれて、ややもすると全能感に支配されている十代や二十代の頃には、気がつきづらいことかもしれない。またあるいは、公の社会を上手に渡ることに夢中になって組織がそこにあることが前提のように捉えていると見落としがちなことかもしれない。

公に生きていて、なおかつそこで有能であろうとすれば、権限や分担、職掌でがんじがらめに捕われてしまう場合がある。過去のいつか見も知らぬ誰かの手によって定められた価値基準を良く理解しこれに則って判断と行動ができることが、自己肯定感を増進することがある。
そういうことは誰しもあることだし、またあって良いことなのだけど、所詮は片一方だけの話。私的暮らしの中では、職掌の考え方や俗にいうプロ意識みたいなものはあまり役に立たない。それどころか、害にすらなる。例えば「自分が担当のパートはできているのだからそれでいいでしょ」という他の事への無関心やエクスキューズの原因になりうる。

しかしながらこの私的社会の中で、そもそもの「役割」をいつどこで誰が定め、分担しましたっけ?というか、役割って分担するんでしたっけ?というようなことを忘れてはいけない。そういうことを忘れてしまうと、極小さな社会を自分で作るという最大のお楽しみをおざなりにして「男は〜。女は〜。」のような既成概念まかせの価値判断を振りかざしかねない。まあ振りかざすのはそれはそれで自由だけど、過度にそういうものに捕われると、本質を見落として単なる便宜的人間として生かされる羽目にあう。
そういうのは自分自身にとっても周囲の人にとっても、とても寂しいことだとおもう。


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