学生時分の学業の成績や、或は籍をおいた学校の名前が、役に立つとか立たないとか、そういう眠たいことを真剣に議論する人が沢山あります。しかもいい大人が、それをやります。
そういうことを真顔で言う人は、のきなみ耄(ほう)けています。
世に出た後のことを考えて体裁をつくるために学業をしてたフリに勤める。このフリを演じるそのために腰掛けるようにして学校に籍を置き、3年とちょっと経つ前に駆け込むように単位をとる。そんなものが世を前へと押し進める「役」になんかたつ筈もありません。
フリというのはどこまでいってもフリでしかないわけです。フリが上手にできるということで証明されるのは、フリが上手だってことだけしかありません。
まず先に不幸とか、不備とか、不便、不具合、不調、不和とかなんでもいいけどとにかく不があって、これに気がついて、なんとか解決を目指したい。その解決のため業に取組みたい。活躍したい枠組みはこうで、解決の糸口はここをこうすることにあると信じる。そんなところに業を勤しむ理由があって。その結果なり行程が、学業であったり職業であったりするんでしょうに。
そこには勤しんだ業そのものへの評価しか無くて、時代からの評価を受けその結果として本業が役に立ったの立たなかったのという議論は許されるにせよ、勤しんだフリなどへの評価などもともとないし、それを図る尺度だって最初から必要がない。
もしもフリについての物差しがあるのだとしたら、さしずめ腰に帯刀してたら侍。頭頂部に髷をちょいとのせてれば奉行。身体が大きければ力士。履歴書が綺麗とか、学校名が綺麗とか、テストの点数が綺麗だとか。そんな格好ありきの道理なんかどこの世にありますかってんです。
体裁までをも気遣うというのならばそれはそれでわからなくはなありませんが、体裁が整っておれば世において通じる筈である高い評価を得るべきであるというような耄けたことを自分の縁(よすが)にしたりしてはいけません。あるいはそういったことを子孫に教える誤った道しるべがすべて消えてなくなりますよう。