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どうあっても、仕事を辞めちゃいけない。
なんだそうだ。そういう風潮は、確かに、ある。というか、本人をとりまくほぼ総ての人々はそれを言うはずだと思う。なんとも大人らしい、もっともな言説に見える。

しかしながら、辞める事情や理由というのもまた、厳然として、あるだろう。辞めようとする者の口からは、ただ単に、苦しいとか、嫌だとか、職場の人間関係に疲れるとか、なんか向いてないと思ったとか、理由とよぶにはなんとも頼りない「感じ方」の言葉しか聞こえてこないかもしれない。そういう言葉を耳にすれば、他人に対してスパルタンなふるい世代の人や、経営者の人たちは責めさいなみ詰りたくなるのだろう。社会というものを解っていない、喰っていく苦しさを解っていない、根性が足りない、我慢が足りない。なんか反駁の余地もないだろうという尤もらしい苦々しさと高慢さが入り交じった顔つきで、そういうだろう。

だけど、生物はもともと身体に摂取するべきでないものや害となるものというのを(不思議なことにどういうわけだか最初から)知っているものだし、自分の身に害を及ぼす可能性のあるものを情動的にかあるいはほとんど生理的に忌み嫌い、直ちにそれとの距離をとろうと行動するものだ。人に限らず生き物は概ねそういうものだろう。この反射行為そのものに世代間格差はおそらく無いだろうし、またこの反射行為に立場による格差は無いだろう。ただ、世代や立場が違うことによって忌み嫌うべき対象が異なる場合というのは、多いにありそうに思える。

人を使う立場にある人間にとって最も恐ろしい危害は、金が産めなく、返せなくなる状況だろう。
世代が上の人間にとって最も恐ろしい危害は、自立して生活するものがそうせず、国が富の増加をもたらさずそうして貨幣価値が底をつく状況だろう。
それに対して今の現役世代にとって最も恐ろしい危害は、仕事に殺される可能性が過去よりずっと増えることと、それからいくらこのまま真面目に働き続け勤め上げたとしても別段返ってくるものはなにもないという先の見えない絶望そのものだろう。

そこには大人も子供もない。上も下もない。エラいもエラくないもない。ただそれぞれの都合がお互いに違うというだけだ。それぞれ異なる都合が、異なりながらも連鎖して絡み合い、歯車のようにかみ合って運動しているときにはそれでよい。が都合が相容れなくなったときだ。そうなった時、というかまさに今、お互いにかくあれと、ただ一方的に相手に自分の都合を満たすことを望んでいるのに過ぎない。自分ではなく、相手に、都合を期待するばかりだ。
そして、食い違った都合がある場合、諍いが絶えず起る。その場合には節度が必要になる。事柄を決めるとき、優先されるのは金じゃなくて命と健康だと見るのが正しいだろう。たったそれだけの節度なり見識も身につけてこず、自分の側の都合によって相手のあり方を定め従わせようとするのは、幼児となんらからわらない行いだ。

他人の行動を見てそれを責めさいなむというこうとは、背景がなんであれ、人を信じたり尊ぶ用意のない浅はかな人間のすることだ。残念ながら、仕事がすなわち命をとして取組むべきものという点で足並みは揃わない。流行の MBA では声高にリーダーシップ論が語られ、ベンチャー会社では全社員経営者の想いで、というのが世の要請としてまことしやかに言われているが、使命感を得ていない事柄に対してリーダーシップを発揮するということは人間にとってはできない話であるしできるにせよそれはとんでもない苦痛であるし、また中長期的に巨額の見返りがない仕事に対して経営者の視点を持っている従業員がいたらそれは承認欲求の大きすぎる未成熟な者か、さもなくばとんでもないお人好しの呆気者だ。そこに愛するべき仕事があって、そこに愛する仲間がいるからこそ頑張れるのが人間なのだという定義のことを、もう少し真剣に研究したその後で、リーダーシップのことをとやかくしる順番に改めなくてはいけない。

使命感を得て、命を賭しても惜しくないそういう仕事を見つけたラッキーな人はごく少数いるとは思うが、もちろん、そうではない人の方がよほど多数であり、命を賭してでも取組む仕事が見つかったひとはただそれだけで幸いに思って欲しい。見つけられなかった人を責めたり、バカにしたりしてはいけない。それをするということは、宝くじで一等を引き当てられない人を罵倒することと全く違わないし、ましてや自分と同じようにして一等を引くことを他人に求めるような愚かなことは考えないでほしい。どちらかというと、それは恥ずべき行いだ。自分と同じ苦労、忍耐、努力を他者へ求めることもまた、同じく恥ずべき行いだ。

そうやって、一人ひとりの都合の違いもありつつ。人は生きていく方法で構わない筈の仕事(というよりも労働とよぶ方が相応しいのだけど)で、直ちに本当に直ちに死んだり、ゆっくりと死んでいったりする。一見端からだとそうは見て取れなくても心ばかりが死ぬ場合もある。時には、生真面目すぎる本人にこそそれとわからないように忍び寄り全く予想外に死なす場合だってある。だから本人を知る訳でもない赤の他人が、生き死にを抱き込む問題に対して口を差し挟むのは、つまり辞めるななどと口にするのは、軽々に過ぎるということをよく解ってほしい。赤の他人でなくても、親でも兄弟でも、3年も離れて暮らせば本人のことなど皆目解らないはずだ。大人ならば、弁えてほしい。

だから、そして、せめて。

本人が生きる人生だし、自分の生き様を選択するくらいは本人の自由を認めたらいいとおもう。もう少し親身に言えば、もうちょっとだけ本人の自由な選択と、その選択の理由を信じて尊重してやってもいいんじゃなかろうか、と思う。
またそうしてやることができる精神的な余裕を備えているほうが、単に辞めるなと叱責するよりも、よほど大人らしいことだと思う。


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