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人間が二人以上あれば、だいたいそこには意志の不整合がおこるわけです。
互いに相手の考えや意思や行動を観察していて、なんか違うなーと思ったときのうちどうしても看過できない場合に相手を批判する流れになります。また批判する数分だけ、批判される側に立つケースもまたあります。

他者からの批判に晒されるなどしたときに、その状況をどう理解するかという点で、当該の批判によって自分の行いの一部が正しくなかったという風に捉えるのが標準的な批判の理解の仕方だとおもいます。
が、受け手によって状況理解の仕方には様々あって、事柄への批判を人格否定と捉えられてしまって場合なんかもあり厄介です。

ともかく、行いの正しさらしきものが批判の的になるということは決して愉快なことではありません。が、集団の成員としてやっていく以上は、不可避なこと。自らの行いが正しいという確信が在る場合には断固としてその正しさを証明してみせなくてはなりませんし、誤りがあった場合にはその誤りを認めることや誤りによって生じた不快を回収することに力を注がなくてはなりません。

で、この批判という事態に際し、人は何らかの行動をとって、身を守ったり、批判への対応を図ったりします。当然の反応です。

コンディションや相手の手強さにもよりますが、断固正しさを主張する為には、鉄のハートが必要になります。そうでないと、本当は正しい行いであるのに、批判を受け是正しなくてはならない格好となり、これは批判をする側される側両者にとって不幸なことです。
また、批判を受け入れ改善に勤める場合にも、全部否定ではなく部分否定の水準までは自己弁護をしなくてはいけません。ある種全否定を受け入れるという諦め対応も無くは在りませんがそれは自暴自棄というもの。必要な分以上の責めを負うことはやはり損が大きくなるものです。その為には理性的、合理的、そして全部を部分までスケールダウンする原因究明力など理知的であることが必要です。
とここまでが、机上の話といいますか、理想論。実際の現実社会がどうかというと、部下からの批判に不条理に激昂する上司なんでいくらでもあります。生徒の指摘を黙殺する先生方があります。子供の批判にテキトーに嘘を返す親があります。また逆に先輩からの批判に、そうでない合理的理由を持ちながらも、口答えなどもってのほかというムードのために事情理由について何の説明も施せない場合があります。
批判の舞台では、大の大人ですらも実情はこんなものだろうと思います。

極自然に解釈すれば、批判の根源にある問題の発生源にきちんと光を当てるのが最も建設的であり、本来求められる改善の姿勢であるはずです。というそのことを頭では解りつつも、課題解決的であろうとするよりむしろ、保身的であろうという気持ちの方が先に立ってしまう、あるいは保身的であろうという気持ちが理性を押しのけてしまう場合があるということです。
保身はほとんど本能や欲求に近い動機ですから、これを押さえ込んで冷静で合理的であろうとする取り組みにはものすごく力が要ると思えます。ですから、既に同傾向が発現しやすい成人の個体では今後も同じように発現するように思えますし、その矯正は容易でないように感じられます。

で、批判のリング上に上がってしまったときに、身を守るやり方には、いくつかのスタイルが見られます。網羅は難しいですが、だいたい次のどれかにあてはま気がします。

・(仮に問題があっても)問題は無いとする。
・問題は認めるが、その所在は自分ではないとする。
・問題は認めるが、それは大きなものではないとする。
・問題は認めるが、それは普遍的なもので不可避とする。
・問題の有無について、意思表明しない。
・問題の有無について、受け流す。
・問題を認め、改善につとめる。
・問題を認め、改善につとめ、相手の協力を仰ぐ。

批判の対象となった場合に、まず最初に問題があるかないかということが主題になるわけですが、それに際して問題が無いということを意思表示することがあり得ます。批判をする気持ちは解らんでも無いが、それでも問題はないよというスタイルです。
あるいは問題があるにせよ、それは自分の問題でないことを示すスタイルもあります。批判する気持ちは解るけど、それをオレに言われても困るんだよねというスタイル。UFO飛来のせいで遅刻したとかもこの部類に入ります。
問題の存在を認めつつ、それでもなお問題は大きくはないという打開で批判を退けるやり方もあります。批判も問題も否定はしないが、さりとて、そういう小さなことに拘るアナタの器の小ささがよほど問題じゃない?というなかなか老獪なスタイルです。
また問題は問題であったと認めながらも、それは全人類に共通する問題だから、不可避であるという説もあります。つまり、確かに自分に問題があったかもしれない。だけどアンタにだって、他の人にだって、この種の問題ってあるよね。というスタイルです。
あとは、全く批判の中身について言及しないことで難を逃れようという場合があります。批判の妥当性についても、問題の所在についてもひたすら黙秘をする。或は下をうつむいて泣き続ける。そうすることで再短時間で嵐が過ぎ去ることを期待する大陸的なスタイル。
加えて批判も受け入れる、問題も受け入れる、けど全部聞き流すというパターンもあります。わかった、わかった、それでいいから。次から注意するから。もういい?とか、うーんゴメンねー♡ところで来週のディズニーなんだけどさー。といった問題解決する気ゼロのスタイルです。
きっと他にも斬新な切り口のスタイルが在るだろうと思いますが、ぱっと頭に浮かぶのはこれくらいです。

で、実際問題。
僕はというと、割にその批判の妥当性をきちんと評価せずに、ど正面からひとまず受け入れてしまうタイプです。
まずは受け入れ、咀嚼し、解を出そうと頭を捻ります。そのせいで、批判に晒されていることそのものをウッカリ忘れてしまったりあるいは批判に至る感情面のフォローを怠ってしまったり、自分自身の汚名を漱ぐことがおざなりになったりします。間抜けといえば間抜け。

一方連れは、批判の矛先が向くと割と慌てます。切り返しのパターンは、でもさー・・。アンタだってあの時にさあ・・という感じで、「問題は認めるが、それは普遍的なもので不可避とする。」タイプ。反省よりも相手の弱みを探し利用するファイトスタイルをとることが多いのは、やっぱり兄弟構成上、上の子属性かなあという気がします。
あとたまに、いまやろうとおもってたのにーっ、という「(仮に問題があっても)問題は無いとする」スタイルもとります。時間軸というトリックを利用して相手の誤解という格好での問題の否定、批判の否定に走る。これもなかなかの上の子スタイルだと思います。(し、ミステリーや推理作品好きなことも関係あるのかな?)

というわけで。批判に際してそれぞれがそれぞれのファイトスタイルで挑むということ、それから、批判そのものに何の興味も示さない人や、問題の発見と解決に何の興味も示さない人。あるいは批判されるという状況理解そのものすらもそれぞれがユニークな理解の仕方をしているということが類推できるかなと思います。

ので、批判をする側に立つ場合、あるいは第三者的に関わる場合において、批判の矢面にある人物を眺めていて、その反応がどうである、こうであるというような事へいちいち目くじら立ててもそれはあまり意味がありません。それぞれの個性であり世の中の捉え方であり、一律化しがたいものだということをよく承知しておくべきだとおもいます。もっといえば、批判をしたから改善が期待されるなどと思うのは、東京電力の例を引くまでもなく、ほとほと浅はかです。

だから、人とその言動にまつわる批判というのは、相手任せで手っ取り早く問題解決をする方法に一見見えつつも、その実、批判を屁とも思っていない場合、それから問題発見能力が無い場合、そして問題解決能力が無い場合、そして問題解決の意思が皆無である場合というものを考え合わせると、いっそのこと批判をする側が、問題を定義して、解決策を打ち立てて、場合によっては解決を実行してしまうほうが、案外手早い合理的な手続きといえるかもしれません。まあ少なくとも、批判の理解、問題の発見〜解決において、皆が皆足並みを揃えるということは絶対に不可能そうに見えます。


人生の言い訳