インターネットは、貧富や立場の垣根を取り去って、知識の偏りから僕らを解放してくれる。誰もが、その道の専門家となりうる可能性を飛躍的に押し広げる素晴らしい道具。だったはずなんだけど。。今や誰も彼もが、何かにつけてけしからんけしからんと目くじらを立てて、誰も彼もが何より先にまずは自分の主義主張ばっかりをするための道具になってしまった感がある。その道具の使われ方が、別の誰かを巻き込んで、さらに主義主張の混沌が広がる場になった。まるでぐるり全員、お目付役にでも就いたみたい。
インターネット民総お目付社会かなにかがここに極まったって感じで、残念方面に感慨深い。

場がインターネットだもので、お目付役にとってはきっと一生涯利用することが無い、そのような遠くの地域の飲食店であったりを題材に、或はこちらの方がより重要なのだけど、まだ年端もいかない血気盛んで理性による制御が十分には働いていない未熟な学生のやる悪戯を題材に、お目付役の仕事を果たそうと躍起になっている。また、所謂お目付役の職責を乗り越えて、処罰内容や量刑に関してまで一家言、言う。シネとか。

お目付役たちは、そういう自分個人とは何ら関係のない余所の地域の、そして同じように何ら関係のない余所の、加えてさほど深刻ではない未成年の悪戯を、どのように落とし前をつけさせるかということに甚だ強い関心を示している。となると当然お目付役という役ではまったく事足りない。執行権を望む。場がインターネット上とはいえ、言動を行っているのは生身の人間だというのに変わりはない。生身の人間が、インターネット上のエリアを巡回して、何か怪しからん事を目撃し、大きな波及を期待できるプラットフォーム上で報道をして、果てには妥当性のある処罰の執行を求め騒ぐ。最悪、執行役を買って出る。
さしずめ、小さな警察で、小さな司法で、小さな立法、そして小さな処刑人すらをもやりたい、という訳だ。または、それら一連をひっくるめて正義のジャーナリズムを実行したいわけだ。これらの何れの動機にせよ根源には、誰か別の生身の人間へバッシングを加えるということを報酬として、報酬を希求しているのに相違なく見える。

それは、信じられないような熱心さだと思う。そう思うと同時に、罰を与える行為なんて執行人にとって本来何の足しにもならない事が報酬になってしまうことが、そもそも個としてのアナーキー状態だと思う。何の足しにもならない報酬のために、日夜パトロールに勤しむ有様は少々狂気じみてる。そんな事よりも取り組むべき重要なテーマは、処理しきれないくらいあるはずなので、尚更解らない。

まあ実際のところ大きなテーマにも同様に励んでいるのかもしれないし、あるいは実社会のテーマにも同じ熱意で取組んでいるのかもしれない。お目付役たちの人物像がそうである可能性は十二分にある。だけど、なんとなく、仮にそうだとしても現実は周囲と調和的に、上手く事を運び、三方よしで問題を解決している人物像は、素直には浮かび上がってこない。お目付役から悪戯小僧共へ向けられた言葉端だけをつまんで評価すれば、独善的で、弾劾的。児童を思いやる素振りは無いし、児童の周辺社会を慮る風情もない。子供相手に容赦も手抜かりもない。こんな程度の低さでは、実際の生活でもトラブルは少なくないんじゃないだろうか、と思える像。
ありったけの時間を費やして、最新型のスマートフォンを使って、光速の回線で、インターネット上のウッカリ・ドキュメントをパトロールして、それでもって偶々見つけた冷蔵庫の件が、今目の前にある最大の危機、巨悪なんだろうね。今日はいい日だ、勝てそうな相手が見つかった。そういうことなのかなと思える。

お目付役なんて。ルールが大事、手続きが大事、公平性が大事、前例が大事という不自由な存在といえば、民ではなく官のやる仕事でしょ。のべつまくなし怪しからんと難癖つけることが仕事であったり、職業使命であったりするのはお役人でしょ。そういったケチな人間がやらなくちゃ行けない仕事はケチな人間に任せて、僕らはもっとおおらかに自由に、遊びや利便やを創造することが生きる術で許されてるはずでしょ。

であるにもかかわらず、頼まれもしないうちから、お目付役をやるその感じがよく判らない。空想だけども。さぞやなりたかったんだね、お役人に。でも何か能力が足らなくて手が届かなかったんだね。それでも未だその心の火は消えていないもんだから、私的な正しさを振りかざして、常識知らずの衆愚どもに言ってやりたいんだね、常識人たる自分が。なっとらんと、理解せよと、そして決まりを今定めたからコレを守れ、と。さもなくば身元を晒す罰を執り行う、と。貴様は万死に値する、と。
もしもそんな感じだとしたら、今からでも遅くないので、正しい手続きで公務員試験を再受験したら良いですよ。それで正規の手続きを経て法制化へ向けて仕事に励んでくれればよい。これがあまりに困難過ぎるのであれば PTA 役員だとかマンション管理役員だとか、自薦で就ける役職は幾つかはあるはずなので、そこで持ち前のお目付役の能力を発揮し自らを慰めてみてはどうか、とおもう。

と言った風に斜に構えず、真正面から言うと。

インターネットでついぞ露見してしまった若人の行為をけしからんと指摘をしている当の自分たちも、ですよ。振り返ればその昔は、つまり十代の頃には、本人にもどうしようもないくらいに血気が盛んで、それゆえに少々の悪戯を愉しんでいたことでしょう。当時の大人たちに見つからないように気をつけながら、むしろ見つからないかどうかのスリルそのものを味わう為にギリギリの線を歩いて、愉しんでいたことでしょう。それでも目算が外れてしまって運悪く見つかって、教師や親や他の大人にガッツリと言葉の暴力と通常の暴力とで散々いたぶられたり、或は大人げあるお目こぼしがあったり、はたまた寛容な大人に守ってもらったり、そういうのがあったでしょう。自分はそうやってちょっとずつ段階を踏ませてもらって、間違いを学ばせてもらって、それでなんとか大人にさせてもらってきたんでしょう。そして現段階から過去全体を振り返ったら、なんだかんだで刑事事件だったりには発展することは回避されていて、大きく観た所では周囲の大人に許してもらって今があるんでしょうよ。

具体的にいえば、学園祭の時には地べたに落っこちた材料で砂入り焼きそばつくって販売した、なんてのはザラだったはずで。近所の文具店で消しゴムを万引きするとか、頭を金色に染めたり、化粧したり、無免許運転したりして粋がってみたり。大人の目を盗んで煙草の味や、酒の味を試したりして愉しんだでしょう。
象徴的に言えば、盗んだバイクで走り出したり、校舎の窓ガラス壊して回ったりということ。誰の十五の夜も共通してそんなもんだし、十七歳の地図なんて誰のもだいたい似たり寄ったりなわけで。
若者がそのレベルで浅はかであるという事実を確り承知して、そのうえで若者を取り扱うのが大人の役目だし、そこの要点は如何に青少年を弾劾してその未来を奪い去るかじゃなく、如何にして許容して生身の監督を施して軌道に乗せてやれるかでしょう。
そういう、自分自身の許してもらってきた事実を一切合切帳消しにして、自己欺瞞に産まれた瞬間から完成型でしたけどなにか?みたいな顔つきで、全く赤の他人のしかもたかが子供を、社会的に再起不能なところまで持ってゆきたい、なんて、馬鹿げたことでしょう。もしも出来事に悪戯に一瞬カッとなったのだとしても、どっかでブレーキを踏めるでしょ、大人は。

そりゃあマーケットを騒がせてその上で議論を待てば勝てますよ、余裕で。そのテーマならば。だってまずは児童の失態ということが先に生じてる状況なんだから。だけど子供の為出来しを突っついて、派手に露見させて、どうだまいったか?!とやって、その結末で幸せになれる人間はいったいどこの誰なのか。

当該の冷蔵庫からアイスを購入する予定の架空の消費者?違うでしょ。冷蔵庫が多少汚れたとしても製品は、メーカーによって几帳面な程丁寧に包装されてるわけで。冷蔵庫を云々するのであれば、その冷蔵庫に至るプロセスでこのアイスの包装が何名の手渡り、何名分の手垢にまみれたものなのかという、そこが先にあるわけで。(まあより手前側を言えば、ババアが指に唾つけて数えたお札をやり取りしてる訳で、そちらの方がアイスよりもよほど対象範囲が広く、よほど不衛生に僕には思えるわけですけども。ジジイの手油も右に同じ。)すると残されるのは、事実上の衛生の問題ではなくて率直にいって漠然と感じる「嫌悪感」でしょ。「なんか、一瞬でも尻の下にあったアイス喰わされるの気分悪い!」っていう気分の問題でしょ。とするならば、この件は食の安全というのとは、テーマ性が全然別で。するとその地域に根ざしてる消費者が「まーたあいつか!しょうがねーな」で終わらせる余地はふんだんに残されているわけで。あるいは店側が「うちはこういう商売です。声明します。酷いもんです。だから買いたくないヒトはどうぞ買わないで」とする余地もあってよいわけで。小さな社会のルールは、その社会が勝手に決めたらいい。まして民間。合法である限りは、多少の自由が認められるでしょ。

百歩譲って。仮にお目付役たちが目くじら立てることによって「若者達が間違ってもバイト先の冷蔵庫に入らない」というコンプライアンスがそこに完成を見たしたとして。で、それが何なの? それによって社会はなにか有意義な形で大きく前に進むのかね? 勿論そんなことはないでしょ。むしろ、この延長線上で予想される社会は相互監視の息苦しい社会なわけで。現にインターネットでは(誰に観られているか解らないから)情報の扱いには気をつけようという対処が言われているし。でもそれって性悪説マキシマムな発想なわけで本来は悲しいことですよ。情報のアップロードと公開範囲設定に気をつけるこれが自衛と称され、性悪説が前提になって誰に強制されるでもなく自ら監視社会の方角に歩みを進めるなんて、あまりポジティブなものじゃありません。そんなものが誕生するその一翼に懲悪の正義感が一枚噛んでるなんて、それはもはや正義じゃないでしょう。どっちかいうと単なる潔癖性のなすり合いでしょう。いやというほど履き潰された論調になってはしまいますが、そういう事柄というのは、道具の問題じゃなくて、使い手の心性の問題がとても大きい。

結局のところ。この件は先攻する悪事を見つけて、後出しじゃんけんで勝って、安全な場所から完膚なきまで打ちのめしたやるという「他人の不幸は蜜の味」な陰湿で意気地の足りない悪意に支えられてると観る方が大きな局面では実りが大きそうです。
より素朴にいえば、勝てる勝負だけしてよがってる連中の行儀の悪い行いと一旦したほうが生産性が高そう。そういう面を別確度から解釈すると、事なかれに代表される減点主義の評価制度がよくよく肌合いに馴染む過剰に高湿度な民族性というのも深く関係がありそう。
個々がそのような心性に陥ってしまう遠因としては、実際のところ労働は海外に流れて不景気だし。実際のところ少子化で子供というものを取り扱うリテラシーとか共感力は当然減少するわけだし。暇すぎて持て余してるんだよね、時間とエネルギーを。

で、同じ暇ならいっそのことその持ち前の情報収集能力と正義感でもって、エジプトの件とまではいわずとも、領土問題の件、増税問題、エネルギー問題、社会保障問題、基地問題、食料自給率問題と数多ある解決が待たれる課題にでも首突っ込んでみてはどうかと思う。まあそこに勝利の快感を得るのはものすごく大変で、きっと蜜の味は得られないだろうけどよほど前向きだと思える。

で、それらが全部終わったら、あとは自習。裏に落書きでもしてなさい。


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