Mubz snap 猫

難しく考えがちな人、多いですよね。僕もそうしがち。
できるだけ沢山の情報をかき集め、できるだけ沢山の結末を描き、できるだけ短時間のうちに、最も正しそうな選択を編み出そうとする。
それそのものは否定されるべきではないし、そういった費やし方でしか生み出せない密度ある結論というのがあるのは事実だが、それに費やす集中力という燃料は一種のニトロのようなものだとおもう。

過度の集中力の消費、無理な働き方或は考え方のその結果として産まれる副産物は絶対にあるし、副産物はひずみとなって潜伏し、そしてほどなくして目に見える形でしっぺ返しがやってくる。

そういった原理原則を解ってちゃんとコントロールできるなら、一時的にニトロを燃やすのもいいかもしれない。だけどその背後で起っている環境変化なり副産物というのは、次のようなものかなと思う。

「難しく考えること」の難点は、まず自分が疲れるというもの。仮に自身に自覚がなかったとしてもこれは本当に疲れること。そうやって疲れて、そうやって無自覚に参っていって、そして無意識に身近な人に悪いコンディションの自分を露呈し、擦り付け、我慢を強いることになる。だから難しく考えることを無自覚無計画に、あるいはそれが無尽蔵のリソースのように捉えて実行してはいけない。難しく考えたその後は、その倍の時間ゆっくりと過ごさなくては行けない。もしもそれが非効率に感じられても。そういうったことに無自覚でいると、所謂燃え尽き症候群や鬱という結構最悪に近い状態を導くこともありえる。これは人生における大・大・大打撃だ。

もう一つの難点はそれがわざとでなくとも「難しく考えること」に他人を巻き込むことによって周囲の人を疲れさせる。まあ中には「難しく考える」ことが好きな人もいるが同じ数かそれ以上「難しく考える」ことが無理な人も居る。切り口ごとに人というのは本当に嫌になっちゃうくらいに多様なので、一時に大勢と付き合うには「難しく考える」ことは入り口を狭めることとほぼ同義になる。そうすると、プロジェクトであったり独りでは完遂できないテーマに関しては、断念せざるを得なくなる。大きな成果は得られないということ。だから自分向けにも関係者向けにも、事柄をシンプルに捉え、表現するよう努めるといい。そしてそれは結構難しい。

結局、近道というものはないのかなあということ。その代わりに僕らには時の運や、時流や、失敗を受け入れる寛容さがあるのだから、そういった部分も目一杯駆使したらいいのだとおもう。


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