感情に基づく論は、数理(数値や公式)に基づく論と双璧を為すものであり、より良い解を導く論拠総量の 1/2 を占めます。
「フゥ・・。まったくぅ。わからんちんどもめが」と思うか思わないかは別としても「アナタのおっしゃるそれわぁ、単なる感情論じゃないですかぁ」みたいなことを言ってはばからない知性派気取りや識者の人っていますよね。
僕はね、もうこの手の人たちの物言いに、或はその物言いを支える根本的な履き違えに、相当カチンと来てます。カチンときてコチンときます。コチンときたからといって、だからどうできるわけでもないのだけど、この人たちの話は聞かないと決めています。なぜならば、結論を導く為の情報を半分しかもって無いから、導く応えに値打ちが認められないから。
「それは単なる感情論です(キリッ」
この「単なる」と「感情論」の用例がですよ。まるで判で押したようにセット過ぎてコンボ過ぎて、それはもしかすると慣用句なのかと錯覚するほどです。このフレーズはよく目にし、耳にします。さもありなん、というところでしょうか。よくできる僕ちゃんってところでしょうか。いかにも理性的、を演出でしょうか。
だけど、ですナ。
一体全体、物事を判断したり、裁いたり、意思決定したりするのに際して、感情を抜きにして何が残るというのでしょうか?
というか、ですよ。機械のように、ロボットのように、コンピュータのように合理性とか整合性とか既に出来上がった公式や規則性とかだけで、物事がスタートしたりストップしたりした試しというのは人類史上一度でもあるのですかね? もしもあるのならば、まずはそれを示してほしいもんです。
戦争を起こすことも、平和を望むことも、子々孫々の反映も、保険商品に加入するのも、暮らしのインフラを引くことも、映画を観に行くことも、労働環境が適正なラインに落ち着くことも、社会保障財源を永続することも、高齢者層の過分なストックを市場に引き出すことも、アベノミクスが継続するかどうかも、そもそも株価も。基地の移設問題も。福島の移住の問題も。領土問題も。他国を憎む気持ちも。テクノロジーの進歩を望むことも、医薬がその裾野を広げることも。オシャレな服が売れるのも、事業をなんとか形にすることも、売上げを満たすことも。友情も。結婚も。挨拶も。すべからくなにもかもが多分に人間の感情を原動力にして引き起こされ、影響され、揺れ動く物事です。
それでなお。「単なる」と「感情」が慣用句で口をついて飛び出すのだから、君の目は節穴か?としか。あきれて物が言えません。
仮にですが、手元に上がってきている資料の中に記載されているそのアンケートの集計結果。俗にデータと呼びましょうか。このデータのことを揺るがない根拠ある拠り所だと信じてるかもしれないけれど、それも元を手繰れば人間の感情そのものですからね。
そして更にその数字の中身は、一人ひとりが嘘をついたり、ちょっと格好つくように操作をしたり、面倒くさいからテキトーに回答したり、書き間違いをしたりしたその集合体だからね。数値化されていようとも定量化されていようとも一見感情から距離をとったように見えても、そんなものは定理でも数理でもなんでもないですよ。単なる判断材料の一個に過ぎない。だからデータ過信は間違った判断を呼び込みます。
根本的に、アンケート用紙の向こう側の人間の言う感情論は信じるが、目の前の人間の感情の話は絶対に聞かないって、どんな屁理屈ですか。まったく。
人間が持つ、皆目根拠のないプライドや、見栄や、強欲や、親切心や、恨みや、思慮深さや、「あー楽してー」とか「ちょっと頑張りてー」とかそういう想いのなせる技の集大成が、今現在の社会の有様そのものなんで、現代社会を(えっらそうに)評する立場に自らを置いておいて(あるいはこのクソ社会で暮らしていかざるを得ない立場に在る大勢を前にして)「それは単なる感情」の論とか高みから物を言って、他者による論拠の提示を遮ろう・切って捨てよう、またそのような手段によって自分の論だけを通そうとするような助平は、心底とんでもない大虚けの馬鹿垂れと断言して構いません。またそうやって、そもそもが助平の大虚けのくせして、なにを他人様の上から物をしゃべっとるか!? と。
無知・無学・無関心・無粋・無分別を口八丁で誤摩化し果(おお)せるという子供染みた信じ込みと他者依存も! 見下しと俯瞰の意味すらも分別つかない生来の愚鈍も! そして、その着てるポロシャツも! なにもかもが勘違いなんだよこのクソ虚けがあああぁぁぁ。
なのであります。
人間は個人としても社会としても自ら持つ感情を満たすべく授かった生を勤めて生きてるのだから「単なる感情」なんてものは有りません。