テーマを絞り込んだブログを運営すること。これが、トラフィックを集めるのには現状最適なように思える。そう思ってるのに、というか解ってるのに、一向にそれをしない・・何故か。

実は別に理由なんかない。強いて言えば、ありたいようにありたい、という願いを持ってしまってるだけなのだとおもう。ありたいようにあるということは、とにかく気分がいいことだから。

まるまる総ての人が生まれつきに様々の側面を持っていて、成長するに従って野球少年だったり、サッカー少年だったりして、青年になって美術青年になったり、科学青年になったりして、歳をおうごとにギュッギュ絞り込まれていって、そして最終的にインフラ事業の人であったり、宣伝の担当者の人であったり、佐川のお兄さんとか、鏡面磨きが凄い人とかそういうことになってって。社会的に解りやすいとある一面だけをもってさもそれがその人の人格であるかのように扱われてゆく。そのことに甘んじるようになる。
ちがうようにいえば、ヨチヨチと歩き始めたばかりの赤ちゃんはそこいら中で寝転ぶ。彼らはまだ何者でもないし、何者でなくても構わないと思ってる。適宜思ったように振る舞う。好きなことしかしない。その様をこないだ新宿高島屋の前で見かけた。

ありたいようにあることはたいそう気持ちが良く、ありたいようにあれないことは酷く気分が悪い。がしかし否が応でも仕事のシーンではありたいようになどあれない。ベタリ貼付けられたラベルの感じを上手に演じきることを求められる。日々出会う様々のはじめましての人と目線や思考の水準を合わせなくちゃならない。理不尽な不満をぶつけられる係というのすらも、実際に職業として存在する。だから当然苦痛が多い。苦痛が多いことは、基本的に多くの人はやりたがらない。極端に苦痛のおおいことは務まる人がものすごく少ない。たとえば借金をして、リスクをとって、お金を払ってまでして、仕事がしたいという奇特なひとは希にしか居ない。そう言う人があまり多くないのはあたりまえだ。でも、だから苦痛を伴うことには値打ちがある場合もまたある。これもあたりまえだ。

なので誰かの期待に沿うようにではなく、自分のありたいようにあるとそりゃ気分はいいけど、お金にはなりづらい。ものすごく大勢がすることはだいたいそういう楽な気分で取組める範囲内の事柄だから。てーことは、すごく頑張ってるのになんだか対価が足りてないなあと思ってるひとは、まだまだ全然自分のありたいようにしかしていない可能性を疑ってみるといいかもしれない。ありたいありさまをグググおさえこんで、皆が嫌う苦痛に耐えて、なおかつ器用に一極に集中すると、ちょっとお金になるチャンスが増える。かもしれない。

もちろん、痛みとか、我慢とか、苦労を伴うのは誰でも嫌だけど、打ち込む対象が生まれつき好きなことであれば、なんとか凌ぎきることができるケースも見受ける。だから好き(という妄想)、得意(という思い込み)は特化した自分にシフトするうえで相当に強力な武器なのだとおもう。けどここはちょっと余談。

というようなことを弁えて、それでなお、世の中はもっと一人格が多様であることを寛容に認めたらいいとおもおうんだけど、どうか。
仕事はナンですか?とかご趣味はナンですか?を聞けばその人物像を一応理解した気になってるのは、冷静に見ればめちゃくちゃにおかしいことだと思う。多面的に人格を捉えることが今よりもう少し当たり前になったら幸福度は結構上がると思う。ただし、14,5歳の児童アイドルにすらも恋愛しないことを割と真面目に要求する大人が当たり前に跋扈する文化圏がここ日本なのだから、多面性の理解は望むべくもないだろうとは思うけどさ。

そんなわけで。結局ここに限ってはずっとそのままボヤンとした感じでずっと行く気がする。