37週、だ。というと259日。なかなか長いもんだ。
去年の11月から、いきなりスタイル変更してはじめたこの感じ。背景としては働き方をおおきくかえたこと。一般的に言えばより会社員らしい素振りを始めてみた。そのことで自分の体と気持ちの両方を上向きに統制し続けていたくて始めたこと。だもんで、それはもはや疾病に陥らないための工夫といってすらよく、つまりごく一握りの近親の者等をのぞいて、他人のためでこれぽちもない書き物を続けたということ。日々気になったことをとりあえず殴り書き、あとでメモ書きから事柄を反芻するということを37週間も続けたんだから、馬鹿であるとはおもう。何故、強いて公開設定で書くかというようなことで。(それはそこに WP があるからだ)
都合8ヶ月間の長きにわたり、ドがつく低調でやってきた。
かねてから、無知と無自覚とそれから精神的な未熟で、たくさんの不用意な立ち回りを演じ、これにより心の各所と関係各所との間にわだかまったものを作り続け、わだかまりが形を得て身体の各所に定型化した不調として現れるそういう一連のプロセスが自分にはあった。
けど、幸い、この37週間に限ってまだ体の不調はない。まだ、としておこうかって感じだけど。実際のところ、仕事そのものは楽であり、身体も楽。早朝に稼働開始することも苦でなく、また遠方へ赴き撮影を行うことも、準備が面倒でこそあれ、心理的障壁はないにひとしい。コンディションは順調に推移している。
どうしてまだ順調でいられるか。それはひとえに立ち回りが上手くなったからであるとかいいたいけどそういうわけではない。
性分がというかDNAがというかそんなに合社会的合理的ではなく、ただ流されて漂うことに満足を覚えるでもなく、やっぱりどっちかといえば不器用。故に精神的窮屈も肉体的疲労もなくなったわけじゃない。
が、それでも世の中と自分との両方を客観視したときに、コマとして自分をどう位置付けるのが今の妥当か、あるいはどこのマスには陣を張らないとか歩を進めないかといった類いのことについて、少しばかり意識を払うようになった。局面を読んで、局面に応じて、いっそう楽しめる打ち手を繰り出す、とかいえば聞こえは格好いいのか。
打ちたい手を打つばかりでは容れられない、打ちたい手を控えるばかりでは容れられない、他人の手を読むだけでも容れられない。打ちたい手を打って、他人の手を生かすことに素直であれば、対局としてそれでいいのだと、とりあえず憶う。勝ち負けは、その後で、器が決める。打っていてたのしいこと、打ていて楽しまれること、がまずは今の大事なんだと憶う。
脱わだかまり、脱ストレスの効率は上がった気がする。自分としては極稀な、社会性能を身につけ始めたような感覚。
そんなこんなで、ここでのこのシリーズは終わり。
後はより簡単でバカらしく軽くそして意味のない方向へ、この場を改める予定。